会社を買った翌月、退職した元従業員から内容証明郵便が届く。中身は過去3年分の残業代の請求――。中小企業のM&Aで最も多いトラブルの一つが、この未払残業代です。
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」も、株式譲渡のデメリットとして「未払残業代等の簿外債務」を真っ先に挙げています。決算書には載っていないのに、会社を買えばそのまま引き継ぐ債務だからです。この記事では、労務DD(労務デューデリジェンス)で何を見るのか、未払残業代の法的な仕組みと最高裁判決、金額の見積もり方、そして株価への影響を整理します。
- 未払残業代は決算書に載らない簿外債務。株式譲渡では買い手がそのまま引き継ぐ
- 賃金請求権の時効は当分の間3年。裁判では同額の付加金、退職者には年14.6%の遅延利息がかかることがある
- 固定残業代は、通常の賃金と割増賃金の部分を判別できなければ未払とされる(最高裁平成24年3月8日判決など)
- 株価には「過去の未払額」と「是正後に増える人件費」の二重の影響がある
- 見つかった未払は、価格の減額、特別補償、クロージング前の精算のどれかで手当てする
労務DDで確認する項目
中小M&Aガイドラインは、法務DDの観点の一つに「人事・労務」を挙げ、人事労務DDが法務DDの一部として行われることもあるとしています。労務DDで確認する主な項目は次のとおりです。
| 項目 | 主な確認資料 | よくある問題 |
|---|---|---|
| 労働時間と割増賃金 | タイムカード、勤怠データ、PCログ、給与台帳 | 未払残業代、固定残業代の設計不備 |
| 管理監督者の扱い | 組織図、職務権限規程、管理職の給与 | 権限・待遇が伴わない「名ばかり管理職」 |
| 就業規則・労使協定 | 就業規則、賃金規程、36協定 | 規程と実際の運用のずれ、36協定の未届・期限切れ |
| 社会保険・労働保険 | 加入者一覧、算定基礎届 | 加入漏れ、短時間労働者の適用漏れ |
| 雇用形態 | 雇用契約書、業務委託契約書 | 実態は雇用なのに業務委託として扱っている |
| 退職金 | 退職金規程、積立の状況 | 規程はあるのに引当・積立がない(未計上の退職給付債務) |
| 紛争・行政対応 | 労働基準監督署の是正勧告、労働審判の記録 | 是正勧告への対応が終わっていない |
このうち金額が大きくなりやすいのが、労働時間と割増賃金、つまり未払残業代です。
未払残業代の法的な仕組み
割増賃金と時効
労働基準法37条は、法定労働時間を超える労働、休日労働、深夜労働について、割増賃金の支払を義務づけています。未払があれば、従業員は会社に請求できます。
賃金請求権の時効について、労働基準法115条は5年と定めていますが、附則143条により、当分の間は3年とされています(2020年4月1日以後に支払期日が来る賃金が対象)。M&Aの労務DDで「直近3年分」を見積もるのはこのためです。
付加金と遅延利息
未払が裁判になると、負担は未払額だけでは済まないことがあります。
| 負担 | 内容 | 根拠 |
|---|---|---|
| 未払の割増賃金 | 本来払うべきだった額との差額 | 労働基準法37条 |
| 付加金 | 裁判所が未払額と同一額の支払を命じることができる | 労働基準法114条(請求は違反の時から5年以内、当分の間は3年) |
| 遅延利息(退職者) | 退職日の翌日以後、年14.6%の割合 | 賃金の支払の確保等に関する法律6条 |
付加金は裁判所が命じることができるもので、必ず課されるわけではありません。それでも、交渉の場では「最大で未払額の2倍」という前提で請求されることがあり、買い手は見積もりに幅を持たせる必要があります。
管理監督者の扱い
「監督若しくは管理の地位にある者」(管理監督者)には、労働時間・休憩・休日の規定が適用されません(労働基準法41条2号)。ただし、厚生労働省は、管理監督者に当たるかは役職名ではなく、経営者と一体的な立場にあるか、労働時間の裁量があるか、地位にふさわしい待遇かといった実態で判断するとしています。また、管理監督者であっても深夜労働の割増賃金は必要です。中小企業で「課長以上は残業代なし」と一律に扱っている場合、労務DDで指摘されることがよくあります。
固定残業代をめぐる最高裁判決
中小企業では、毎月一定額を「みなし残業手当」「業務手当」などとして払い、残業代に充てる固定残業代がよく使われます。この仕組みが有効かどうかは、最高裁で何度も争われてきました。
| 判決 | 事案の概要 | 結論と理由 |
|---|---|---|
| 最高裁第一小法廷 平成24年3月8日判決(平成21年(受)第1186号) | 基本給に一定時間分の時間外労働の賃金が含まれるとされていた | 通常の労働時間の賃金と時間外労働の賃金を判別できず、割増賃金を支払ったとはいえない |
| 最高裁第二小法廷 平成29年7月7日判決(平成28年(受)第222号) | 医師の年俸に時間外労働の賃金が含まれるとの合意があった | 高額の年俸でも、割増賃金の部分を判別できない以上、割増賃金を支払ったとはいえない |
| 最高裁第一小法廷 平成30年7月19日判決(平成29年(受)第842号) | 「業務手当」を時間外労働の対価として支払っていた | 契約書等の記載や、使用者の説明、実際の勤務状況などから、時間外労働の対価として支払われたと認めた |
| 最高裁第一小法廷 令和2年3月30日判決(平成30年(受)第908号) | 歩合給の計算で、割増金に相当する額を差し引く賃金規則だった | 実質的に通常の賃金を割増賃金に置き換えて支払うもので、割増賃金の部分を判別できず、未払がある |
令和2年3月30日判決は、ある手当が時間外労働等の対価として支払われたものかどうかは、契約書等の記載内容その他の諸般の事情を考慮して判断すべきで、その際には手当の名称や算定方法だけでなく、賃金体系全体の中での位置づけにも留意しなければならないと述べています(平成30年7月19日判決を参照)。
労務DDでは、次の3点を確認します。
- 雇用契約書・賃金規程に、固定残業代が何時間分・いくらで、時間外労働の対価であることが明記されているか
- 給与明細で、基本給と固定残業代が区別されているか
- 実際の残業時間が想定時間を超えた月に、差額を支払っているか
最高裁判所第一小法廷 令和2年3月30日判決・平成30年(受)第908号 賃金請求事件。裁判所ウェブサイトの判決原文(PDF)。上の表の各判決は、この判決文の中で引用されています。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る未払額の見積もり方:簡単な試算
労務DDでは、勤怠データと給与データを突き合わせて未払額を見積もります。考え方を、仮の数字で示します。
これは未払の元本だけです。退職者の遅延利息や、裁判になった場合の付加金の可能性を加えると、買い手が見込むリスクはさらに大きくなります。実際の見積もりでは、1時間当たりの賃金に含める手当の範囲、月60時間を超える部分の割増率、深夜・休日の別、勤怠記録がない期間の扱いなどを一人ずつ検討します。
勤怠記録がそもそも残っていない会社もあります。労働安全衛生法は、事業者に労働者の労働時間の状況の把握を義務づけています(66条の8の3)。記録がないこと自体が、DDでは大きなリスクとして評価されます。
株価への「二重の影響」
未払残業代は、株価に2つの経路で影響します。
| 影響の経路 | 内容 | 株価への反映 |
|---|---|---|
| 過去分(ストック) | 3年分の未払額、付加金・遅延利息のリスク | 有利子負債と同じように株式価値から差し引く(債務類似項目) |
| 将来分(フロー) | 是正すると毎年の人件費が増える | 正常EBITDAが下がり、事業価値そのものが下がる |
見落とされやすいのは後者です。上の例で、毎年600万円の残業代を正しく払うようになれば、正常EBITDA(実態に合わせて調整した利益)が年600万円下がります。事業価値をEBITDAの何倍かで考える場合、過去分の1,800万円に加えて、600万円に倍率を掛けた額だけ価値が下がる計算になります。正常EBITDAの考え方は正常EBITDAとはで、債務類似項目はネットデットと現預金の扱いで解説します。
銀行の見え方も変わります。著書のモデルでは、債務償還年数を「(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)」で計算します。人件費の増加で経常利益が下がれば、買収資金を借りる買い手の返済能力の評価も下がります。M&A融資の考え方はM&Aの買収資金の融資もご覧ください。
契約での手当てと、売り手が先にやっておくこと
契約での手当て
労務DDで未払の可能性が見つかった場合、主に次の方法で手当てします。
- 価格の減額:見積もった未払額を株式価値から差し引く
- クロージング前の精算:売り手の責任で未払分を計算し、従業員に支払ってからクロージングする
- 特別補償:クロージング後に請求があった場合、一定期間・一定額まで売り手が補償する
- 代金の一部留保:補償に備えて代金の一部を一定期間留保する(エスクロー・ホールドバック)
表明保証だけで手当てすると、何が違反に当たるかで争いになりがちです。中小M&Aガイドラインも、DDの結果を踏まえて表明保証の範囲を擦り合わせることが重要だとしています。分かっている問題は、表明保証ではなく価格か特別補償で個別に手当てするのが、売り手・買い手双方にとって安全です。
事業譲渡の場合
事業譲渡では、従業員の雇用契約は自動的には移りません。使用者は労働者の承諾なしに雇用契約上の権利を第三者に譲り渡せないため(民法625条1項)、従業員一人ひとりの同意を得て転籍してもらうことになります。未払残業代の債務を引き継ぐかどうかは契約で決められますが、転籍する従業員との関係では、労働条件の説明と合意が欠かせません。詳しくは事業譲渡で従業員はどうなるかで解説します。
売り手が先にやっておくこと
- 直近3年分の勤怠と給与を突き合わせ、未払がないか自社で確認する
- 固定残業代は、時間数・金額・時間外労働の対価であることを書面で明確にし、超過分を精算する
- 管理職の権限と待遇を見直し、管理監督者として扱う範囲を実態に合わせる
- 未払が見つかれば、売却前に是正・精算する
是正すれば利益は一時的に下がりますが、DDで発見されて「ほかにもあるのでは」と疑われるより、交渉ははるかに読みやすくなります。
まとめ
- 未払残業代は決算書に載らない簿外債務で、株式譲渡では買い手がそのまま引き継ぐ
- 時効は当分の間3年。付加金(同額まで)と退職者の年14.6%の遅延利息にも注意する
- 固定残業代は、割増賃金の部分を判別できなければ未払とされる。最高裁は平成24年・平成29年・令和2年に未払を認め、平成30年には有効と認めた
- 株価には、過去の未払額と、是正後に増える人件費の二重の影響がある
- 分かっている問題は、価格・クロージング前の精算・特別補償で個別に手当てする
クレフティでは事業承継・M&A支援として、財務・税務デューデリジェンスや、DDの発見事項を正常EBITDAと株式価値にどう反映するかの検討をお手伝いしています。労務の法的判断は社会保険労務士・弁護士と連携して進めます。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
