事業譲渡でM&Aを進めると、オーナーが最も気にするのが従業員の行く末です。「事業ごと売るのだから、社員も一緒に移るはず」と考えがちですが、法律上はそうなりません。事業譲渡では、従業員の雇用を買い手に移すには、一人ひとりの同意が必要です。
この記事では、民法と厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(事業譲渡等指針)をもとに、事業譲渡での従業員の扱い、労働条件と退職金、会社分割・株式譲渡との違い、税務と銀行の視点を整理します。
- 事業譲渡では、雇用は自動的に移らない。買い手に移すには従業員本人の同意が必要(民法625条1項)
- 事業譲渡等指針は、労働組合等との事前協議、従業員への十分な説明と協議、同意しないことのみを理由とする解雇は認められないことなどを示している(2026年5月25日から企業価値担保権に関する改正部分を適用)
- 労働条件は買い手との新しい契約で決まる。条件を変えるなら、その変更にも同意がいる。退職金は「精算」か「通算」かを決める
- 株式譲渡は雇用がそのまま続く。会社分割は労働契約承継法により、主として従事する労働者は同意なく移るが、協議・通知の義務がある
- 買い手は退職給与債務の引受けを価格に反映させる。税務上は一定の場合に負債調整勘定の対象になる
M&Aの方法で変わる「雇用の移り方」
| 方法 | 雇用契約 | 本人の同意 | 主なルール |
|---|---|---|---|
| 株式譲渡 | 会社は同じなので、そのまま続く | 不要 | 労働条件も変わらない |
| 合併 | 存続会社に包括的に承継される | 不要 | 労働条件もそのまま維持される |
| 会社分割 | 分割契約などの定めに従い承継 | 主として従事する労働者は原則不要 | 労働契約承継法による協議・通知・異議申出 |
| 事業譲渡 | 移すかどうか、誰を移すかを個別に決める | 必要 | 民法625条1項、事業譲渡等指針 |
事業譲渡は、取引先との契約と同じように、雇用契約も一つずつ移す取引です。買い手は誰を引き受けるかを選べる一方、従業員も移るかどうかを選べます。契約の移し方の全体像はチェンジオブコントロール条項で、許認可の承継は許認可はM&Aで引き継げるかで解説しています。
事業譲渡等指針が示す手続き
厚生労働省は2016年に事業譲渡等指針(平成28年厚生労働省告示第318号)を定め、同年9月1日から適用しています。法律上の義務ではない部分も多いのですが、トラブルを防ぐための実務の基準として重視されています。厚生労働省のパンフレットをもとに、主な内容を整理します(厚生労働省「事業譲渡等指針のポイント」)。
| 段階 | 指針が示す内容 |
|---|---|
| 労働組合等との事前の協議 | 過半数組合(ない場合は過半数代表者)と事前に協議するよう努める。協議事項は、事業譲渡の背景・理由、譲渡会社と譲受会社の債務の履行の見込み、承継予定労働者の範囲、労働協約の承継など。遅くとも従業員との協議の開始までに始める |
| 承継予定の従業員との事前の協議 | 事業譲渡の全体の状況(両社の債務の履行の見込みを含む)、譲受会社の概要、労働条件(業務の内容・就業場所など)を十分に説明する。真意による承諾を得るまでに十分な協議ができるよう、時間的余裕をみて行う |
| 承諾 | 承継には従業員の承諾が必要。労働条件を変えて承継させる場合は、その変更についても同意が必要 |
| 解雇 | 承継に同意しなかったこと、従事していた事業が譲渡されたことのみを理由とする解雇等は認められないことに留意 |
| その他 | 承継する従業員の選定で、労働組合員への不利益な取扱いなど法律違反の取扱いをしてはならない。団体交渉の申入れには誠意をもって対応する |
2026年の改正
事業譲渡等指針は、事業性融資の推進等に関する法律で企業価値担保権が創設されたことを踏まえて改正され、2026年(令和8年)5月25日から適用されています。企業価値担保権が実行される場合の事業譲渡で、裁判所が選任する管財人が労働組合等や従業員に情報提供や協議を行うことなどが加えられました(厚生労働省「事業譲渡等指針の改正のポイント」)。通常のM&Aでの事業譲渡の基本的な手続きは、上の表のとおりです。
労働条件・退職金・有給休暇の扱い
労働条件は「新しい契約」で決まる
事業譲渡で移る従業員は、売り手の会社を退職し、買い手の会社と新たに雇用契約を結ぶ(または、雇用契約上の地位を移す)形になります。どちらの形でも、本人の同意が前提です。買い手の就業規則や賃金制度が売り手と違う場合、従来の条件を維持するのか、買い手の制度に合わせるのかを決めて、従業員に具体的に説明する必要があります。
| 項目 | 決めておくこと |
|---|---|
| 賃金・賞与 | 従来の水準を維持するか。買い手の制度に移す場合の調整(激変緩和など) |
| 勤続年数 | 買い手で通算するか。昇給・退職金・有給休暇の計算に影響する |
| 有給休暇の残日数 | 引き継ぐか、売り手で消化・精算するか |
| 退職金 | 売り手で精算するか、買い手で通算して将来支払うか |
| 就業場所・業務 | 変更があるか。通勤や転勤の負担 |
| 社会保険・企業年金 | 資格の喪失・取得の手続き。確定給付年金や中退共の扱い |
条件を下げる提案をすれば、同意しない従業員が増えます。中核の従業員が移らなければ、事業そのものが成り立たないこともあります。
退職金:「精算」か「通算」か
退職金の扱いは、大きく2つに分かれます。
- 売り手で精算する:事業譲渡の時点で売り手が退職金を支払い、買い手では勤続年数をゼロから数える
- 買い手で通算する:売り手での勤続年数を通算し、将来の退職時に買い手がまとめて支払う
精算すれば、売り手に退職金の支払資金が必要になります。通算する場合は、買い手が将来の支払義務を引き受けることになるため、その分を事業の譲渡価格から差し引くのが一般的です。退職給付債務の考え方は退職給付債務・未払退職金と株価で解説しています。
会社分割との違い:日本IBM事件の最高裁判決
労働契約承継法の仕組み
会社分割では、労働契約承継法が適用されます。分割される事業に主として従事する労働者の労働契約は、分割契約(新設分割では分割計画)に承継すると定めれば、本人の同意なく承継会社に移ります。そのかわり、会社には次の義務があります。
- 労働者の理解と協力を得る努力(過半数組合などとの協議)
- 労働契約の承継について、承継される事業に従事する労働者と個別に協議する(商法等改正法附則5条の協議、いわゆる「5条協議」)
- 一定の期限までに労働者へ通知する
- 承継から外された「主として従事する労働者」や、承継の対象とされた「主として従事しない労働者」は、異議を申し出ることができる
日本IBM事件(最高裁平成22年7月12日判決)
最高裁平成22年7月12日第二小法廷判決(平成20年(受)第1704号、民集64巻5号1333頁)は、新設分割で設立会社に労働契約が承継されるとされた労働者が、承継の効力を争った事案です。
最高裁は、5条協議が全く行われなかった場合や、協議は行われたものの会社からの説明や協議の内容が著しく不十分で、法が協議を求めた趣旨に反することが明らかな場合には、労働者は承継の効力を争うことができるとしました。そのうえで、この事案では、会社が労働者代表への説明資料を使って説明し、承継に納得しない労働者と最低3回の協議を行い、代理人の労働組合とも7回にわたって協議したことなどから、協議が著しく不十分とはいえないとして、承継は有効としています(裁判所ウェブサイト)。
会社分割は「同意がいらない」方法ですが、協議の手続きを省けば承継の効力そのものが否定され得ることを示した判決です。事業譲渡でも、指針が求める説明と協議を記録に残しておくことが、後の紛争を防ぐことにつながります。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る従業員にいつ、どう伝えるか
M&Aは秘密保持が前提ですが、事業譲渡では従業員の同意が必要なので、どこかで必ず個別に説明することになります。
- 幹部・キーパーソン:事業の継続に欠かせない人には、買い手の意向も踏まえ、早めに個別に説明することが多い
- 全従業員:最終契約の締結後、効力発生日まで時間的余裕をもって説明会と個別面談を行う
- 同意書:転籍の同意を書面で取り、労働条件を明示する(労働条件通知書)
同意を得るために、事実と違う説明をしてはいけません。事業譲渡等指針は、会社が意図的に虚偽の情報を提供するなどして承諾を得た場合には、従業員が民法96条1項に基づいて意思表示を取り消し得ることに触れています(事業譲渡等指針の本文)。伝え方とタイミングは従業員にM&Aを伝えるタイミングもご覧ください。
税務・価格・銀行の視点
買い手:退職給与債務の引受けと負債調整勘定
買い手が事業譲渡で従業員を引き継ぎ、売り手での在職期間も勘案して将来の退職金を支払うことを約束して負担を引き受けた場合(退職給与債務引受け)、一定の要件を満たす事業の譲受けなどでは、税務上その金額を負債調整勘定として計上します(法人税法62条の8第2項1号)。退職給与債務の引受けは、のれん(資産調整勘定)の金額の計算にも影響します。
売り手:精算する退職金の資金と損金
売り手が退職金を精算する場合、その支払は売り手の損金になり、従業員にとっては退職所得になります。事業の譲渡益と同じ事業年度に計上されることが多いため、譲渡益と相殺される形になります。ただし、支払資金を事業の譲渡代金でまかなうなら、入金と支払のタイミングを合わせておく必要があります。事業譲渡の税金全体は事業譲渡の税金で解説しています。
価格への反映
| 項目 | 価格への影響 |
|---|---|
| 退職金を買い手で通算 | 将来の支払義務分を譲渡価格から差し引く |
| 未払残業代などの労務リスク | 売り手に残すか、価格調整・補償で手当てする |
| キーパーソンの転籍 | 同意をクロージングの前提条件にすることがある |
労務リスクの確認は労務DDと未払残業代をご覧ください。
銀行の見方
銀行は、事業譲渡後に売り手の会社に何が残るかを見ます。事業を譲渡した後の売り手は、従業員が減り、残った借入をどう返すかが問われます。譲渡代金で借入を返済するのか、残った事業で返していくのかを、事前に取引銀行に説明しておくことが大切です。著書のモデルでは、債務償還年数((借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等))10年以内を健全の目安としています。買い手側も、引き継ぐ人件費と退職金の負担を織り込んだ事業計画で、融資を申し込むことになります。
まとめ
- 事業譲渡では、雇用を買い手に移すには従業員一人ひとりの同意が必要(民法625条1項)
- 事業譲渡等指針は、労働組合等や従業員との事前協議、十分な説明、同意しないことのみを理由とする解雇は認められないことなどを示している。2026年5月25日から企業価値担保権に関する改正部分を適用
- 労働条件・勤続年数・有給休暇・退職金は買い手との新しい契約で決まる。変更するなら同意を得る
- 会社分割は労働契約承継法で同意なく移せるが、協議が著しく不十分なら承継の効力を争われ得る(日本IBM事件、最高裁平成22年7月12日)
- 退職金を通算するなら価格から差し引く。税務上は一定の場合に負債調整勘定の対象になる
事業譲渡のスキーム設計、退職金の扱いと価格への反映、税務の検討は、事業承継・M&A支援でご相談をお受けしています。労働法上の手続きは、必要に応じて社会保険労務士・弁護士と連携して進めます。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
