会社を売ると決めたオーナー経営者が、最後まで悩むのが「従業員や取引先、銀行に、いつ、どう伝えるか」です。長年一緒に働いてきた社員に隠しごとをするのはつらいものです。一方で、伝える時期を誤ると、M&Aそのものが壊れてしまうこともあります。
私(相亰)はかつてベンチャー企業のM&A仲介会社で役員を務めていました。M&Aの現場では、価格や契約条件と同じくらい、「誰に、いつ話すか」の段取りが結果を左右します。この記事では、中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」などの公的資料をもとに、従業員・取引先・銀行への伝え方を、株式譲渡と事業譲渡の違いも含めて整理します。
- 従業員・取引先への公表は、ごく一部の幹部を除き、原則としてクロージング後(早くとも最終契約締結後)。中小M&Aガイドラインもこの考え方をとっている
- 例外は銀行。経営者保証や借入の扱いのため、最終契約より前から相談を始めることが中小企業庁の資料で求められている
- 株式譲渡なら雇用も契約も会社に残る。事業譲渡は従業員一人ひとりの承諾と、取引先との契約の切り替えが必要になる
- 伝える内容は「なぜ売るのか」「何が変わり、何が変わらないのか」。買い手と相談して、伝える順番と言葉をあらかじめ決めておく
なぜ「伝える時期」がM&Aの成否を分けるのか
中小M&Aガイドライン(第3版、2024年8月)は、手続き全体を通じて秘密を守り、情報の漏えいを防ぐことを「極めて重要」と位置づけています。そのうえで、最終契約前に知らせるのは親族や幹部役員などごく一部に限り、それ以外の関係者には、原則として可能な限りクロージング後(早くとも最終契約締結後)に知らせるべきだとしています。
理由ははっきりしています。M&Aは最終契約の直前まで、条件が合わずに終わる可能性があるからです。ガイドラインは、取引先や従業員に意図せず情報が伝わったり、経営者の不用意な一言からトラブルになったりして、M&Aが頓挫した例があると指摘しています。そして、情報が伝わった後に頓挫すると、取引先の喪失や従業員の退職など、事業の継続そのものに支障が出るおそれがあると注意を促しています。
「社員を裏切っているようで心苦しい」というお気持ちはもっともです。ただ、結論が出ないうちに話すことは、かえって社員を不安な状態に長く置くことにもなります。決まったことを、決まった順番で、誠実に伝える。これが、結果として社員を守ることにつながります。
なお、DD(デューデリジェンス:買い手による会社の調査)の期間中は、買い手側の専門家が資料を確認したり、現地を訪れたりします。ガイドラインも、情報を開示していない役員・従業員に悟られずに進める工夫が必要だとしています。資料の受け渡し方法や、訪問者の説明の仕方は、仲介者・FAや専門家と事前に打ち合わせておきましょう。
相手別:誰に、いつ、何を伝えるか
伝える相手ごとに、時期と内容の目安を整理すると次のようになります。実際の時期は、案件の事情に応じて買い手と協議して決めます。
| 相手 | 伝える時期の目安 | 主に伝える内容 | 注意点 |
|---|---|---|---|
| 配偶者・後継候補だった親族 | 検討の初期 | 売却を考えている理由、家族の財産への影響 | 相続や生活設計にも関わるため、早めに共有 |
| ごく一部の幹部(右腕の役員など) | 最終契約前(必要な場合のみ) | 資料準備やDD対応への協力 | 秘密保持の誓約をとる。人数は最小限に |
| 取引銀行(保証の提供先) | 最終契約の一定期間前、遅くともクロージング前 | 借入・経営者保証の扱いの相談 | 秘密保持条項の対象から外しておく |
| 従業員全体 | クロージング直後(早くとも最終契約後) | 売却の理由、雇用・待遇の見通し、新しい経営者の紹介 | 買い手と一緒に説明会を開くのが一般的 |
| 主要取引先 | クロージング後すぐ(契約上必要なら事前) | 取引の継続、窓口の変更の有無 | チェンジオブコントロール条項がある契約は事前の同意が必要なことも |
| その他の取引先・顧客 | クロージング後、順次 | 社名・担当者・請求先の変更の有無 | 案内文を買い手と共同で作る |
ポイントは、銀行と、契約上同意が必要な取引先だけは「事前」になりうるという点です。それ以外は、原則として「決まってから」です。
従業員への伝え方:株式譲渡と事業譲渡で何が変わるか
株式譲渡なら、雇用契約はそのまま続く
株式譲渡は、オーナーが持っている株式を買い手に売る方法です。株主が変わるだけで、会社そのもの(雇用主)は変わりません。従業員との雇用契約、給与、退職金規程は、原則としてそのまま続きます。
ですから、従業員への説明の中心は「会社はなくならない」「雇用も給与も、今の契約のまま続く」という安心材料になります。ただし、買い手のグループの人事制度に将来合わせることを予定している場合は、「すぐには変わらないが、今後こういう方向で検討する」と正直に伝えるほうが、後の信頼につながります。
事業譲渡なら、一人ひとりの承諾が必要
事業譲渡は、会社の事業を、資産・契約ごとに買い手に移す方法です。雇用主が変わるため、民法625条1項により、労働契約を買い手に移すには従業員本人の承諾が必要です。
厚生労働省の「事業譲渡又は合併を行うに当たって会社等が留意すべき事項に関する指針」(平成28年厚生労働省告示第318号)は、譲渡会社に対し、承継予定の労働者に事業譲渡の全体の状況や譲受会社の概要、承継後の労働条件などを十分に説明し、真意による承諾を得られるよう協議することを求めています。あわせて、労働組合(ない場合は過半数代表者)とも協議するよう努めることとされています。
指針は、事業譲渡を理由とする解雇は、労働契約法16条(解雇権の濫用)により無効となりうることにも触れています。転籍に同意しない人をどうするかは、事前に買い手と方針を決めておく必要があります。詳しくは事業譲渡で従業員はどうなるかで解説します。
説明会で伝えるべき4つのこと
中小M&Aガイドラインは、M&A後に従業員の一斉解雇が行われるケースは多くないと言われる一方、売り手の経営者は従業員の処遇を懸念することが多いと指摘しています。従業員への説明では、次の4点をはっきり伝えます。
- なぜ売却を選んだのか:後継者の不在、会社をさらに伸ばすため、など。オーナー自身の言葉で
- 何が変わらないのか:雇用、給与、勤務地、職場の仲間
- 何が変わる可能性があるのか:経営者、決裁の流れ、将来の人事制度。「わからないこと」は「わからない」と言う
- 新しい経営者は誰か:買い手の経営者に同席してもらい、直接あいさつしてもらう
幹部やキーマンには、全体説明の前に個別に話すのが一般的です。引き留めの考え方は売却時に幹部・キーマンをどう引き留めるかをご覧ください。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る取引先への伝え方:契約書の「チェンジオブコントロール条項」を先に確認
取引先への公表も、原則はクロージング後です。ただし、取引基本契約や賃貸借契約、フランチャイズ契約などに、チェンジオブコントロール条項(株主や経営権が変わったときに、相手方への通知や同意を求めたり、相手方が契約を解除できたりする条項)が入っていることがあります。
中小M&Aガイドラインも、クロージング後の引継ぎ作業として、役員・従業員や取引先への報告、リース・賃貸借・金銭消費貸借契約の名義変更や保証人の変更を挙げています。そして、チェンジオブコントロール条項がある場合は、契約を続けるために事前に相手方と協議・交渉が必要になることがあると注意しています。
実務では次の順番で進めます。
- DDの段階で、主要な契約書にチェンジオブコントロール条項があるかを洗い出す(チェンジオブコントロール条項)
- 同意が必要な取引先は、最終契約の前後で、買い手とタイミングを相談のうえ、オーナー自ら説明に行く
- それ以外の取引先には、クロージング後に買い手と連名の案内文を出し、主要先には訪問であいさつする
事業譲渡の場合は、取引先との契約を一つひとつ買い手に移す必要があります。契約の相手方の同意がなければ契約は移りませんから、株式譲渡よりも取引先への説明の負担が大きくなります。
銀行への伝え方:最終契約より前から相談する
銀行は、ほかの関係者と扱いが違います。オーナーが会社の借入の経営者保証をしている場合、その保証をどう外すか、あるいは買い手に移すかが、売り手にとって最も大きなリスクになるからです。
中小企業庁は、中小M&Aガイドラインの参考資料「中小M&A時の経営者保証の取扱いについて」で、M&Aの成立と同時に経営者保証を解除する(または買い手に移す)ことを最優先とし、そのために可能な限り最終契約の一定期間前に、少なくとも最終契約後からクロージング前までには、金融機関への相談を始めるべきだとしています。金融機関の審査には時間がかかり、特に買い手がその銀行の取引先でない場合は、一から与信審査をするため、さらに時間がかかることがあるからです。
あわせて、仲介者・FAには、売り手が金融機関に相談したい場合にそれを拒まず、仲介契約・FA契約の秘密保持条項の対象から相談先を外すことが求められています。同じ資料は、金融庁の監督指針の改正(2024年8月)も踏まえ、金融機関が「代表者の変更がなされていない」「M&A成立前の段階である」といった形式的な理由で審査を拒むのは不適切だとしています。
銀行への相談で確認したいのは次の点です。
| 確認すること | 内容 |
|---|---|
| 経営者保証の扱い | クロージングと同時に解除できるか、買い手への切り替えになるか |
| 借入の継続 | 株主が変わっても借入を続けられるか。期限の利益に関する条項の確認 |
| 買い手の審査に必要な書類 | 買い手の決算書、事業計画など。早めにそろえる |
| 解除できない場合の代替案 | 買い手の資金での一括返済・借換えなど |
経営者保証が外れないまま会社を手放すことの危険は、悪質な買い手・トラブル事例と身を守る方法で、中小企業庁が注意喚起している実例とあわせて解説しています。保証解除の一般的な考え方は経営者保証を外す方法もご覧ください。
伝える前に準備しておく「想定問答」と、税理士の役割
公表の日は、オーナーにとっても従業員にとっても特別な日です。当日に慌てないよう、次のものを買い手と一緒に準備しておくと安心です。
- 従業員向けの説明文と想定問答:「給料は下がるのか」「退職金はどうなるのか」「社長はいつまでいるのか」
- 取引先向けの案内文:取引条件、窓口、請求書の宛先に変更があるか
- 社内の連絡網:説明会に出られない社員、パート・アルバイトへの伝え方
- オーナーの引継ぎ期間:顧問や相談役として残るか、いつまで出社するか(売却後、オーナーは会社に残るのか)
従業員の質問で多いのが退職金です。株式譲渡であれば退職金規程は会社に残りますが、買い手がDDで退職給付の積立不足を確認し、価格に反映していることもあります。オーナー自身の役員退職金をどうするかも含め、数字の整理は顧問税理士と早めに行っておくべきところです。
クレフティでは、売り手の立場で、株価算定や売却後の手取りの試算、銀行との経営者保証の相談の段取りなどをご支援しています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺ったうえで、案件に応じて公認会計士・税理士や金融機関出身のコンサルタントが対応します。
まとめ
- 従業員・取引先への公表は、ごく一部を除き原則クロージング後(早くとも最終契約締結後)。中小M&Aガイドラインの考え方に沿う
- 銀行には最終契約より前から相談する。経営者保証の解除は、M&A成立と同時が最優先
- 株式譲渡は雇用も契約も会社に残る。事業譲渡は従業員一人ひとりの承諾と、契約ごとの切り替えが必要
- チェンジオブコントロール条項のある契約は、事前の同意が必要になることがある。DDの段階で洗い出す
- 説明では「なぜ売るのか」「何が変わらないのか」をオーナー自身の言葉で。想定問答は買い手と一緒に作る
伝え方の段取りは、M&Aの最後の大仕事です。事業承継・M&A支援では、売却の準備段階から、数字と段取りの両面でご相談をお受けしています。
