会社を売ったら、その日から完全に引退する──そう考えているオーナー経営者は少なくありません。しかし実際には、取引先や従業員、金融機関への引継ぎのために、売却後も一定期間、会社に残るケースがよくあります。買い手から「最低でも1年は残ってほしい」と求められることもあります。
残ること自体は悪いことではありませんが、どんな立場で、どのくらい、いくらの報酬で残るのかを決めておかないと、売却後にトラブルになります。さらに、残り方によっては役員退職金が税務上否認されることもあります。この記事では、中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」と「中小PMIガイドライン」の記載、会社法の条文、退職金をめぐる判決をもとに、売却後のオーナーの残り方を整理します。
- 中小M&Aガイドラインは、最終契約で取り決める主要な内容として、経営者による引継ぎ期間と競業避止義務を挙げている
- 残り方は、代表取締役のまま・取締役や会長・顧問(業務委託)・残らないの大きく4つ。期間・役割・報酬・勤務形態を契約で具体的に決める
- 顧問としてこれまでどおりの勤務形態・報酬で残る場合、成立時の退職金は損金性が否認されるおそれがある(中小PMIガイドライン)
- 事業譲渡では、譲渡会社は原則として20年間、同一の市町村と隣接市町村で同一の事業ができない(会社法21条)。株式譲渡では契約で競業避止を定める
- キーマン条項は、売り手や幹部の残留を取引の条件にするもの。売り手にとっては、退任の時期と報酬の約束とセットで考える
売却後の残り方は大きく4つ
| 残り方 | 主な役割 | 売り手から見た注意点 |
|---|---|---|
| 代表取締役として一定期間残る | 経営の継続、取引先・金融機関との関係維持 | 退任の時期を明確にしないと、引退が延び続ける。経営者保証の扱いも決める |
| 代表権のない取締役・会長として残る | 後任の社長の補佐、対外的な顔 | 役員としての責任は続く。退職金の扱いに注意 |
| 顧問・相談役(業務委託・非常勤)として残る | 技術・ノウハウの引継ぎ、相談役 | 業務内容・時間・報酬を決める。常勤で同じ仕事を続けると退職と認められにくい |
| 残らない(クロージングで退任) | 書面での引継ぎのみ | 取引先・従業員が離れるリスクがあり、価格や条件に影響することも |
中小M&Aガイドラインは、最終契約で取り決める主要な内容の1つとして「経営者・役職員の処遇(経営者による引継ぎ期間や、従業員の雇用継続の努力義務等を設けてあるか)」を挙げています。期間の長さだけでなく、誰に、何を、どこまで引き継げば終わりなのかを書いておくことが大切です。
引継ぎ期間に何をするか
中小M&Aガイドラインは、クロージング後も譲り渡し側の経営者は、譲り受け側による円滑な引継ぎなどに向けて誠実に対応する必要があるとしています。最終契約で具体的な協力義務を定めていれば、それを果たす必要があります。引継ぎの作業として、ガイドラインは次のような例を挙げています。
- M&Aのクロージングについての、役員・従業員や取引先などへの報告
- リース契約・賃貸借契約・金銭消費貸借契約などの名義変更、経営者保証の解除、(連帯)保証人の変更
- 業務フローの引継ぎ、業務管理体制の構築
中小PMIガイドラインも、M&A成立後に譲渡側の経営者と継続的にコミュニケーションをとり、信頼関係を深めるとともに、合意した役割が守られているかを確認することを、買い手の取組として挙げています。売り手が残る期間は、買い手にとっても、売り手の経営者や従業員の「これまでの努力や感情」を損なわずに新しい体制に移るための時間です。PMIの全体は買収後の統合(PMI)で失敗しないためにをご覧ください。
顧問契約で決めることと、退職金の注意点
顧問契約で決めること
売却後に顧問・相談役として関わる場合は、役員とは別に、会社との業務委託契約などで次の点を決めます。
| 項目 | 決めておく内容 |
|---|---|
| 業務の内容 | 技術指導、取引先への同行、後任社長からの相談対応など、具体的に |
| 勤務の形態 | 出社の頻度・時間、常勤か非常勤か |
| 期間 | 開始日と終了日、更新の有無、途中解約の条件 |
| 報酬 | 月額、支払方法、経費の扱い |
| 権限 | 決裁権を持たないこと、対外的な肩書きの使い方 |
退職金が否認されるおそれ
中小PMIガイドラインは、譲渡側経営者に顧問等としてこれまでどおりの勤務形態・報酬でサポートしてもらう場合、M&A成立時に役員退職金を支給してしまうと、税務上退任の事実が認められず、役員退職金の損金性が否認されるおそれがあるとし、待遇だけでなく退職金の支給時期も慎重に検討する必要があるとしています。
実際に、東京地方裁判所平成29年1月12日判決(税務訴訟資料267号順号12952)は、代表取締役を退任した元代表者が、月額報酬は205万円から70万円に下がったものの、常勤の相談役として毎日出社して以前と同じ執務室で執務し、経営に関する会議に出席し、後任の社長の同席なしに金融機関と交渉していた事案で、支給した退職慰労金は法人税法上の退職給与に当たらないと判断しました(控訴審の東京高裁平成29年7月12日判決も控訴を棄却)。M&Aの事案ではありませんが、「肩書きが変わっても実態が変わらなければ退職とはみなされない」という考え方は、売却後に残るオーナーにもそのまま当てはまります。詳しくは役員退職金が否認されるケースをご覧ください。
東京地方裁判所 平成29年1月12日判決(国税庁 税務訴訟資料 第267号 順号12952(PDF))、東京高等裁判所 平成29年7月12日判決(同 順号13033(PDF))
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事業承継・M&A支援を見る競業避止義務:どこまで制限されるか
事業譲渡の場合:会社法21条
事業譲渡では、会社法21条が適用されます。
- 事業を譲渡した会社は、当事者の別段の意思表示がない限り、同一の市町村(特別区を含み、指定都市は区または総合区)の区域内とこれに隣接する市町村の区域内で、譲渡の日から20年間、同一の事業を行ってはならない(1項)
- 同一の事業を行わない特約をした場合、その特約は、譲渡の日から30年の期間内に限り効力を有する(2項)
- これらにかかわらず、不正の競争の目的をもって同一の事業を行ってはならない(3項)
この規定の対象は、事業を譲渡した会社です。オーナー個人に競業を禁じたい場合は、最終契約でオーナー個人も当事者にして、競業避止を約束してもらうのが一般的です。
株式譲渡の場合:契約で定める
株式譲渡では、会社法上、株式を売った株主個人に当然の競業禁止義務はありません。そのため、中小M&Aガイドラインも、最終契約で取り決める主要な内容に「競業避止義務(譲渡後に競合する事業を行うことがどの程度禁止されているか)」を挙げています。決める内容は次のとおりです。
| 項目 | 決める内容 |
|---|---|
| 期間 | クロージングから何年か |
| 地域 | 全国か、特定の都道府県・商圏か |
| 業種 | 対象会社の現在の事業と同じ業種か、関連業種まで含むか |
| 勧誘の禁止 | 対象会社の従業員の引抜き、取引先の勧誘の禁止 |
| 例外 | 既に持っている他社の株式、親族の事業など |
売り手が別の事業を続ける予定があるなら、例外として明記しておく必要があります。期間や範囲が広すぎる条項は、売り手の生活や職業選択を過度に縛ることになるため、売却の目的に照らして合理的な範囲かどうかを、双方で確認しておくことが大切です。
キーマン条項:残ることを取引の条件にする
キーマン条項は、売り手のオーナーや特定の幹部・技術者が一定期間会社に残ることを、最終契約の前提条件や誓約事項にするものです。買い手は、事業の価値が特定の人に結びついている場合、その人が辞めると価値が下がるため、こうした条項を求めます。
売り手から見た注意点は次のとおりです。
- 自分が残る場合:期間、役割、報酬、途中で辞めた場合の扱い(違約金や価格の返還の有無)を確認する
- 幹部・技術者の残留が条件の場合:本人の同意なしに約束できない。売り手が保証できるのは「説得に努める」までが現実的
- アーンアウトとの組み合わせ:業績に応じた追加の支払いが、売り手が残ることと結びついている場合、目標や計算方法があいまいだと争いになりやすい(ガイドラインも、条件や計算方法の妥当性を確認し、明確かつ詳細な内容にする必要があるとしている)。詳しくはアーンアウト・分割払い・役員としての残留をご覧ください
中小M&Aガイドラインは、クロージング後の支払いの形として、役員退職慰労金のクロージング後払いにも触れ、経営者や役員が引継ぎのために一定期間残る場合のインセンティブとして使われることがある一方、事業や買い手の状況によっては不履行となるリスクがあるとしています。退職金を後で受け取る約束は、支払いの確実性(金額・時期・条件の明記)を確保しておく必要があります。
税務・銀行・取引先の目線
税務:報酬と退職金の時期
- 役員として残る場合の報酬:役員報酬は、原則として毎月同額(定期同額給与)でなければ損金になりません(法人税法34条1項1号)。売却に合わせて報酬を変える場合は、改定の時期と手続きを確認します
- 退職金の時期:実質的に退職したといえる時点で支給するのが基本です。退任と同時に一括で払えない場合の分割支給や、分掌変更による支給には、損金算入の時期をめぐる判例・裁決があります(役員退職金が否認されるケース参照)
- 退職金と株式の価格:退職金を払うと会社の純資産が減り、株価が下がります。手取りの比較は退職金と株式売却の税率の違いで試算しています
銀行と取引先:引継ぎの中心は「紹介」
金融機関との関係は、決算書だけでは引き継げません。売り手が残る期間に、後任の社長と一緒に取引銀行を訪問し、経営方針と返済計画を説明する場をつくることが、融資取引の継続には効果的です。経営者保証の解除も、この期間に進めます(事業承継と経営者保証、経営者保証を外す方法参照)。取引先も同様で、前の社長が新しい体制を紹介することで、契約の継続に安心感が生まれます。
まとめ
- 最終契約では、引継ぎ期間と競業避止義務を具体的に決める(中小M&Aガイドライン)
- 残り方は、代表取締役・取締役や会長・顧問・残らない、の4つ。期間・役割・報酬・勤務形態を書面にする
- 顧問としてこれまでどおりの勤務形態・報酬で残ると、成立時の退職金は否認されるおそれがある(中小PMIガイドライン、東京地裁平成29年1月12日判決)
- 事業譲渡は会社法21条で原則20年・同一と隣接の市町村の競業禁止。株式譲渡は契約で定める
- キーマン条項・アーンアウト・退職金の後払いは、条件の明確さと支払いの確実性が鍵
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