中小企業のM&Aで、買い手が最も気にすることの一つが、「この会社の幹部やキーマンは、売却後も残ってくれるのか」です。営業の柱になっている部長、現場をまとめる工場長、取引先との関係を一手に担う担当者。こうした人が売却をきっかけに辞めてしまえば、買い手が評価した会社の価値は大きく下がります。価格の引下げや、最悪の場合は取引の中止につながることもあります。
この記事では、売却の際に幹部・キーマンをどう引き留めるかを、伝える順番、雇用契約の法的な扱い、リテンション報酬と税金、競業避止の有効性の4つの面から整理します。
- キーマンの離職は価格と取引の成否に直結する。買い手はDDとトップ面談でキーマンを確認し、残留を契約の条件にすることもある
- 伝える範囲は最小限が原則。中小M&Aガイドラインは、幹部などごく一部を除き、原則としてクロージング後(早くとも最終契約締結後)に知らせるべきとしている
- 株式譲渡なら雇用契約はそのまま続くが、事業譲渡では従業員の同意が必要(民法625条1項)。辞める選択肢が生まれやすい
- リテンション報酬は、従業員なら賞与として原則損金。役員なら事前確定届出給与などの要件を満たさないと損金にならない
- 競業避止は、対象・地域・期間・範囲を絞り、代償措置を検討しないと無効とされるおそれがある
なぜキーマンの引き留めが重要なのか
中小企業では、売上や現場の運営が特定の人に依存していることが少なくありません。買い手から見ると、その人が辞めるリスクは会社の価値のリスクそのものです。
| キーマンのタイプ | 辞めたときの影響 | 買い手が確認すること |
|---|---|---|
| 営業の柱(主要顧客の担当) | 取引先が一緒に離れる | 顧客との関係が個人か会社か |
| 現場の責任者(工場長・施工管理) | 生産・品質・安全が回らない | 技術やノウハウが文書化されているか |
| 有資格者(許認可に必要な資格者) | 許認可が維持できない | 資格者の人数と代わりがいるか |
| 経理・管理の責任者 | 月次決算や資金繰りが止まる | 業務の手順と引継ぎ体制 |
特に許認可が必要な業種では、資格者が辞めると事業そのものが続けられなくなることがあります(許認可はM&Aで引き継げるか)。社長以外の特定の人への依存も、社長依存の会社と同じく評価を下げる要因になります。
買い手はキーマンを契約の条件にすることがある
買い手は、DDやトップ面談でキーマンの存在を確認し、株式譲渡契約で、キーマンの残留や雇用契約の締結をクロージングの前提条件にしたり、キーマンが一定期間内に辞めた場合の価格の調整を求めたりすることがあります。売り手にとっては、キーマンが残ってくれるかどうかが、代金を受け取れるかどうかに関わります。契約の考え方は株式譲渡契約の要点とアーンアウト・分割払い・役員としての残留をご覧ください。
伝える順番:誰に、いつ、どう伝えるか
原則は「最小限・最後」
中小M&Aガイドラインは、M&Aの手続き全般にわたって秘密を厳守することが極めて重要だとし、社内の役員・従業員に対しても、知らせる時期や内容に十分注意する必要があるとしています。そのうえで、最終契約の前に極秘で親族や幹部役員などごく一部の関係者にのみ知らせることもあるが、それ以外の関係者には、原則として可能な限りクロージング後(早くとも最終契約締結後)に知らせるべきだとしています。従業員に情報が伝わった後にM&Aが頓挫すると、従業員の退職などで事業の継続に支障が出るおそれがあるからです。
キーマンに先に伝える場合
一方で、買い手がキーマンとの面談を望む場合や、キーマンの協力がなければDDの資料が揃わない場合もあります。キーマンに先に伝えるときは、次の点に注意します。
- 買い手と協議して決める:誰に、どの段階で伝えるかを買い手と合意する
- 秘密保持の誓約をもらう:伝える前に、秘密保持の誓約書に署名してもらう
- 社長本人が直接伝える:仲介者や買い手からではなく、社長の言葉で、なぜ売るのかを説明する
- 本人の処遇を具体的に示す:役職、給与、勤務地、役割がどうなるかを、わかっている範囲で伝える
- 買い手と会う機会をつくる:買い手の経営者と直接話すことで、不安が和らぐことが多い
ガイドラインも、譲り渡し側の経営者は、譲り受け側の経営者が譲り渡し側の幹部役員などに対して高圧的な態度を取ることなく、譲り受け側の役員・従業員と同等に接する姿勢を心掛けているかを確認しておくことが考えられる、としています。キーマンへの伝え方は、買い手を見極める機会にもなります。全体の伝え方は従業員・取引先・銀行に売却をどう伝えるかで解説しています。
雇用契約の扱い:株式譲渡と事業譲渡で違う
| 手法 | 雇用契約 | キーマンが辞めるリスク |
|---|---|---|
| 株式譲渡 | 会社の株主が変わるだけで、雇用契約はそのまま続く | 本人の意思で辞めることはできるが、手続き上の区切りはない |
| 事業譲渡 | 従業員は買い手の会社に移籍する。移籍には本人の同意が必要(民法625条1項) | 同意しなければ移籍しない。移籍の際に「辞める」選択肢が生まれやすい |
| 合併・会社分割 | 法律に基づき承継される(会社分割は労働契約承継法の手続き) | 手続きの中で説明と協議が必要 |
民法625条1項は、使用者は、労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができないと定めています。事業譲渡では、キーマン一人ひとりの同意を得る必要があり、労働条件が下がるなら同意を得にくくなります。詳しくは事業譲渡で従業員はどうなるかと事業譲渡と株式譲渡の違いをご覧ください。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る引き留めの方法:お金と、それ以外
リテンション報酬(残留賞与)
売却後、一定期間在籍してくれた場合に支払う特別な賞与を、リテンション報酬(残留賞与)と呼びます。「クロージングから1年在籍したら○○万円」「2年後に業績目標を達成したら○○万円」といった形です。誰が負担するか(売り手が売却代金から払うのか、買収後の会社が払うのか)も、契約で決めます。
| 設計のポイント | 内容 |
|---|---|
| 対象者 | 事業に欠かせない人に絞る。対象外の社員との公平感にも配慮 |
| 条件 | 在籍期間、業績目標、引継ぎの完了など |
| 金額 | 本人の給与水準、役割の重さ、代わりの人を採用する費用などから考える |
| 負担者 | 売り手(代金から)か、買収後の会社か |
| 支払時期 | 一括か、分割か。途中で辞めた場合の扱い |
リテンション報酬の税務
| 受け取る人 | 会社の税務 | 本人の税務 |
|---|---|---|
| 使用人(従業員) | 賞与として原則損金に算入 | 給与所得として源泉徴収 |
| 役員(取締役など) | 定期同額給与・事前確定届出給与・業績連動給与のいずれかに当たらないと損金不算入(法人税法34条1項) | 給与所得として源泉徴収 |
| 売り手のオーナーが個人で払う | 会社の経費にならない | 本人への贈与や一時所得などの扱いを検討 |
キーマンが取締役の場合は特に注意が必要です。一定の時期に一定額を払う約束なら、事前確定届出給与として、所定の期限までに所轄の税務署長に届け出る必要があり、届け出た額と実際の支給額が違えば、原則としてその全額が損金不算入になります(法人税基本通達9-2-14)。使用人兼務役員かどうかでも扱いが変わります。役員報酬の設計は役員報酬の設計で解説しています。
株式やストックオプション
買い手が上場会社やファンドの場合、キーマンに買収後の会社の株式を持ってもらったり、ストックオプションを付与したりすることがあります。将来の会社の成長がキーマン自身の利益になるため、長く残ってもらう動機になります。税制適格ストックオプションなど、要件を満たすと課税の時期が繰り延べられる制度もありますが、要件は細かく定められているため、設計の段階で確認が必要です(ストックオプションの税金)。
お金以外の要素
キーマンが辞める理由は、お金だけではありません。
- 役割と権限:買収後の組織で、自分の役割がどうなるかがわからないと不安になる
- 新しい上司との関係:買い手から来る経営者との相性
- 労働条件:勤務地、労働時間、評価制度の変更
- 社長への信頼:「自分たちを売った」と感じさせない、社長の誠実な説明
売り手の社長が引継ぎ期間中に残り、キーマンと買い手の橋渡しをすることが、何よりの引き留め策になることも多くあります(売却後、オーナーは会社に残るのか)。
競業避止:辞めた後の同業への転職は止められるか
キーマンが辞めて同業他社に移ったり、独立して顧客を連れて行ったりするのは、買い手が最も恐れる事態です。そのため、退職後の競業避止義務を誓約書や就業規則で定めることがあります。ただし、退職後の競業避止は、職業選択の自由を侵害しうることなどから、制限的に解されています。
経済産業省の「秘密情報の保護ハンドブック」(平成28年2月、最終改訂令和6年2月)の参考資料は、退職後の競業避止義務契約の有効性について、判例が次のような項目で判断していると整理しています。
| 判断の要素 | 内容 |
|---|---|
| ① 守るべき企業の利益 | 営業秘密やノウハウなど、守るべき利益があるか |
| ② 従業員の地位 | 競業避止義務を課す必要性が認められる立場か |
| ③ 地域的な限定 | 禁止する地域が限られているか |
| ④ 存続期間 | 禁止する期間が必要な範囲に限られているか |
| ⑤ 禁止される行為の範囲 | 禁止する業務の範囲が限られているか |
| ⑥ 代償措置 | 制約に見合う手当などが講じられているか |
ハンドブックは、企業側に守るべき利益があることを前提に、過度に職業選択の自由を制約しないよう配慮し、守るべき利益を保全するために必要最小限度の制約を課すものであれば、有効性自体は認められると考えられる、としています。一方で、判例は個別性が強く、どのような規定なら有効かは一概に言えないとも注意しています。
- 「同業すべてへの転職を無期限に禁止」のような一律の誓約は避ける
- 対象を本当に必要な人に絞り、禁止する業務・地域・期間を具体的に書く
- リテンション報酬や手当を、代償措置として位置づけることを検討する
- 競業避止だけに頼らず、顧客情報や技術資料の管理(秘密保持)とあわせて考える
売り手の社長自身の競業避止は、株式譲渡契約で定めるのが一般的です。社長の競業避止の対価や顧問料の税務は競業避止の対価・顧問料の税務で取り上げます。
売る前からできるキーマン対策
キーマンの問題は、売却が決まってから慌てて対応するより、売る前から準備しておくほうが効果的です。
- 業務を文書化する:キーマンの頭の中にあるノウハウを、手順書や顧客の記録に残す
- 二番手を育てる:一人に依存する業務を、複数の人で担えるようにする
- 顧客との関係を会社に移す:担当者だけでなく、会社として顧客と接点を持つ
- 評価と報酬を整える:キーマンの処遇が市場水準より低いと、売却を機に流出しやすい
- 就業規則と誓約書を見直す:秘密保持と競業避止の規定を、有効性の判断要素に沿って整える
こうした準備は、売却のためだけでなく、会社の経営そのものを強くします。銀行も、特定の人に依存しない組織かどうかを見ています。著書のモデルでは、債務償還年数((借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等))を返済能力の目安にしていますが、キーマンが辞めて利益が落ちれば、この数字もすぐに悪化します。売る前の準備は売る前の磨き上げをご覧ください。
まとめ
- キーマンの離職は会社の価値と取引の成否に直結する。買い手はキーマンの残留を契約の条件にすることもある
- 伝える範囲は最小限が原則。幹部に先に伝えるときは、買い手と協議し、秘密保持を誓約してもらい、社長が直接説明する
- 株式譲渡なら雇用契約は続くが、事業譲渡では本人の同意が必要(民法625条1項)
- リテンション報酬は、従業員なら賞与として原則損金。役員なら事前確定届出給与などの要件を満たさないと損金不算入
- 競業避止は、守るべき利益・地位・地域・期間・範囲・代償措置を考慮して有効性が判断される。必要最小限に絞って設計する
クレフティでは、公認会計士・税理士の桃原隼一が大手監査法人で監査とM&A支援に携わり、上場企業の常勤監査役も務めています。事業承継・M&A支援では、キーマンの処遇とリテンション報酬の設計と税務、株式譲渡契約の条件の確認、売却前の組織づくりをご相談いただけます。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
