企業価値と株価

退職給付債務・未払退職金は株価にどう影響するか|M&Aの価格と相続税評価で扱いが違う理由

M&Aの交渉で、買い手から「退職金の未積立分を価格から差し引きたい」と言われることがあります。決算書には載っていないのに、なぜ数千万円単位の減額になるのか。多くのオーナーが戸惑う論点です。

従業員に退職金を支払う約束(退職金規程など)がある会社では、従業員が働いた分だけ、将来の支払義務が積み上がっています。これを退職給付債務といいます。この記事では、退職給付債務・未払退職金がM&Aの価格と相続税の自社株評価にどう影響するか、中小企業の会計ルール、銀行の見方まで整理します。

この記事の結論
  • 退職金規程があれば、決算書に載っていなくても将来の支払義務がある。M&Aでは負債と同じもの(デットライクアイテム)として株式価値から差し引かれやすい
  • 中小企業の会計に関する指針では、退職一時金制度なら期末自己都合要支給額を退職給付債務とする簡便的方法が認められている
  • 中退共など追加負担のない制度は掛金の費用処理で済み、負債は残らない。ただし会社の上乗せ分は残る
  • 相続税評価(純資産価額)では、退職給与引当金は負債にならない(財産評価基本通達186)。M&Aの価格とは扱いが逆になる
  • 退職金は支払時に損金になるため、価格交渉では税効果を考慮した額で差し引くかも論点になる

退職給付債務とは何か

決算書に載っていない「将来の支払」

退職金規程がある会社では、従業員が1年働くごとに、将来支払う退職金の額が増えていきます。いま全員が退職したら支払うことになる額、あるいは将来の退職時に支払う見込額のうち、すでに働いた期間に対応する部分が、会社の退職給付債務です。

上場会社などは会計基準に従って退職給付債務を計算し、貸借対照表に退職給付引当金として負債計上します。一方、中小企業では、法人税法上、退職給与引当金の繰入額が損金にならないこともあり、引当金を計上していない会社が少なくありません。計上していなくても、支払義務がなくなるわけではありません。

中小企業の会計に関する指針のルール

中小企業の会計に関する指針(日本税理士会連合会・日本公認会計士協会・日本商工会議所・企業会計基準委員会が公表)は、退職給付について次のように定めています。

制度会計処理
退職一時金制度・確定給付企業年金など(確定給付制度)退職給付債務から年金資産を差し引いた額などを退職給付引当金として計上。退職一時金制度の場合、会社が自ら計算できる方法として、期末自己都合要支給額を退職給付債務とする方法(簡便的方法)が認められる
中小企業退職金共済(中退共)・特定退職金共済・確定拠出年金拠出以後に追加的な負担が生じないため、掛金を費用処理する
退職一時金の一部を中退共などから支給する制度期末自己都合要支給額から、中退共などから給付される額を除いた金額による
退職金規程も支払の合意もない場合計上できない。ただし支給実績があり、将来も支給の見込みが高く、金額を合理的に見積もれる場合は、重要性がない場合を除き計上が必要

期末自己都合要支給額とは、決算日に従業員全員が自己都合で退職したと仮定した場合に支払う退職金の合計額です。退職金規程と各従業員の勤続年数・基本給があれば、会社で計算できます。

会計のルールは「一般に公正妥当と認められる企業会計の慣行」(会社法431条)に従うものとされ、中小企業の会計に関する指針はその一つとして位置づけられています。

M&Aでは「負債と同じもの」として価格から差し引かれる

企業価値から株式価値への橋渡し

M&Aの価格は、多くの場合、事業が生み出す価値(企業価値)から、有利子負債などを差し引いて株式価値を求めます。このとき、借入金と同じように将来の現金の流出が確実なものは、負債と同じもの(デットライクアイテム)として差し引かれます。未払・未積立の退職金は、その代表例です。考え方は企業価値と株式価値の違いとネットデットと現預金同等物で解説しています。

計算例

従業員30名、退職金規程あり、退職給付引当金は未計上の会社を想定した架空の例です。

項目金額
事業価値(EBITDAなどから算定)5億円
有利子負債▲1億5,000万円
現預金(余剰分)+8,000万円
退職給付債務(期末自己都合要支給額)▲6,000万円
株式価値2億7,000万円

退職給付債務を考えなければ株式価値は3億3,000万円ですが、差し引くと2億7,000万円になります。決算書の純資産には何も表れていない6,000万円が、価格を2割近く動かすことになります。

交渉で論点になること

論点売り手の主張の例買い手の主張の例
計算の基準自己都合要支給額(簡便的方法)でよい会社都合や定年退職の支給率で見るべき
税効果退職金は支払時に損金になるので、税金の減少分を考慮すべき損金になるのは将来で、利益が出るかもわからない
中退共との関係中退共の積立分は差し引くべき会社の上乗せ分は全額負債
退職予定者近く退職する人はいない高齢の従業員が多く、近い将来の支払が集中する

税効果の論点は、退職金を支払った年に損金になり、法人税等が減ることをどう扱うかです。差し引く額を「退職給付債務×(1−実効税率)」とするか、全額とするかで、価格が変わります。将来の利益見通しや繰越欠損金の有無で考え方が分かれるため、算定の前提を確認しておくべきポイントです。

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役員退職金・死亡退職金の扱い

役員退職金

オーナーや役員の退職金は、従業員の退職給付とは別に考えます。株式譲渡に合わせてオーナーが退任し、会社から役員退職金を受け取る場合、その支払で会社の現預金と純資産が減るため、株式の価格もその分下がるのが通常です。一方で、役員退職金は退職所得として課税され、株式の譲渡所得とは税負担が異なります。株式の対価と退職金の組み合わせ方は、税負担と、買い手の資金負担の両方に関わります。

ただし、役員退職金が不相当に高額であれば、損金算入が否認されるおそれがあります。考え方はオーナーの役員報酬の正常化、不動産会社の例は役員退職金と不動産会社もご覧ください。

取締役会で決まっていて未払いのもの

株主総会で支給が決議され、まだ支払われていない役員退職金は、確定した未払金です。M&Aでも相続税評価でも負債として扱います。

相続税の自社株評価では扱いが逆になる

財産評価基本通達186

相続税・贈与税の自社株評価で使う純資産価額の計算では、負債の範囲が限定されています。財産評価基本通達186は、貸倒引当金、退職給与引当金、納税引当金その他の引当金及び準備金に相当する金額は負債に含まれないとしています。一方、次のものは負債に含まれることに留意するとしています。

  1. 課税時期の属する事業年度の法人税・消費税・事業税・住民税のうち、課税時期までの期間に対応する未払いの額
  2. 課税時期以前に賦課期日のあった固定資産税のうち、未払いの額
  3. 被相続人の死亡により、相続人などに支給することが確定した退職手当金、功労金その他これらに準ずる給与の金額

M&Aの価格との違い

項目M&Aの株式価値相続税の純資産価額
従業員の退職給付引当金・未計上の退職給付債務負債と同じものとして差し引くことが多い負債に含めない
確定した未払の役員退職金差し引く負債に含める(未払金)
オーナーの死亡退職金―(相続時の論点)支給が確定したものは負債に含める

M&Aの価格が相続税評価より低くなる要因の一つが、こうした負債の範囲の違いです。相続税評価と取引価格の違いは相続税評価額と取引価格、死亡退職金の扱いは死亡退職金と自社株で解説しています。

なお、純資産価額の計算では、評価差額に対する法人税額等に相当する金額として、評価差額の38%を控除します(財産評価基本通達186-2。2026年10月時点の国税庁ウェブサイトの通達による)。自社株評価の全体像は自社株評価の基本をご覧ください。

銀行の見方と、売却前にしておきたいこと

銀行は「実質的な負債」として見る

銀行は、決算書の数字に加えて、実質的な財務内容を見ます。退職金規程があるのに引当金を計上していない会社は、その分だけ実質的な純資産が小さいと評価されることがあります。中小企業の会計に関する指針に沿って計上しているかどうかは、決算書の信頼性の判断材料にもなります。

退職金の支払は、現預金を大きく減らす一時的な支出です。高齢の従業員が多い会社では、数年以内に支払が集中することもあります。著書のモデルでは、債務償還年数を(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)で計算し、10年以内を健全の目安としています。退職金の支払で現預金が減れば、この数字も悪化します。

売却前のチェックリスト

退職金について売り手が準備しておくこと
  1. 退職金規程はあるか。最新の規程と、過去の改定の経緯を整理したか
  2. 期末自己都合要支給額を、従業員ごとに試算したか
  3. 中退共などの外部積立の加入状況と、規程との関係(上乗せ部分)を確認したか
  4. 定年が近い従業員の人数と、数年以内の支払見込額を把握したか
  5. 規程がなくても、慣行として退職金を支払ってきた実績はないか
  6. 役員退職金を支給する場合、株式の価格と合わせた手取りを試算したか

売り手が自分で数字を把握しておけば、買い手の試算を検証でき、交渉で一方的に減額されることを防げます。DDでよく指摘される項目はデューデリジェンスでよく見つかる問題もご覧ください。

まとめ

  • 退職金規程があれば、決算書に載っていなくても退職給付債務がある。M&Aでは負債と同じものとして株式価値から差し引かれることが多い
  • 中小企業の会計に関する指針では、退職一時金制度なら期末自己都合要支給額で計上する簡便的方法が認められる。中退共など追加負担のない制度は掛金の費用処理
  • 交渉では、計算の基準、税効果、中退共との関係、退職予定者が論点になる
  • 相続税の純資産価額では、退職給与引当金は負債に含めない(財産評価基本通達186)。支給が確定した死亡退職金は負債に含める
  • 売却前に自社で試算しておけば、買い手の数字を検証でき、銀行への説明にも役立つ

退職給付債務の試算、株価算定、相続税評価との比較は、事業承継・M&A支援でご相談をお受けしています。大手FASで財務DDとバリュエーションを担当してきた公認会計士・税理士が在籍しています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。

よくある質問

退職給付引当金を計上していない会社は、M&Aで不利になりますか?
引当金を計上していなくても、退職金規程があれば従業員に将来支払う義務はあります。買い手はDDで退職金規程と従業員の勤続年数から支払見込額を試算し、負債と同じもの(デットライクアイテム)として株式価値から差し引くのが一般的です。決算書に載っていない分、交渉の場で初めて大きな減額要因として示されると、売り手には不利に感じられます。事前に自社で試算しておくことが大切です。
相続税の自社株評価では、退職給付引当金は負債になりますか?
なりません。財産評価基本通達186は、純資産価額を計算するとき、貸倒引当金、退職給与引当金、納税引当金その他の引当金・準備金は負債に含まれないとしています。一方、被相続人の死亡により相続人などに支給することが確定した退職手当金・功労金などは負債に含まれます。M&Aの価格と相続税評価で扱いが違う点に注意が必要です。
中退共に加入していれば、退職金の負債は考えなくてよいですか?
中退共のように拠出以後に追加の負担が生じない制度だけで退職金を支払う場合は、掛金を費用処理し、会社に退職給付の負債は残りません。ただし、退職金規程で中退共からの給付を上回る額を会社が上乗せして支払う定めがある場合は、その上乗せ部分が会社の負担として残ります。規程と中退共の給付の関係を確認してください。

※本記事は2026年10月18日時点の法令・制度に基づく一般的な解説です。個別の状況により結論が異なるため、実行前に専門家へご相談ください。

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