M&Aの価格交渉は、「事業価値(EV)がいくらか」で終わりではありません。オーナーが受け取る株式価値を出すには、事業価値からネットデット(純有利子負債)を差し引く必要があります。そして実務では、この「差し引く項目」と「足す項目」に何を入れるかで、価格が数千万円動くことがよくあります。
この記事では、中小企業庁が公表している算定式をもとに、ネットデットの基本と、負債類似項目・非事業用資産・事業に必要な現預金の扱いを、売り手・買い手の両方の目線で整理します。
- 株式価値=事業価値−ネットデット。ネットデット=有利子負債−現預金が基本形
- 実務では、負債類似項目(未払退職金、リース債務、未払税金など)を負債に加え、非事業用資産(保険積立金、遊休不動産など)を資産に加える
- 現預金のうち、事業に最低限必要な部分を上乗せの対象にするかは争点になりやすい
- どの項目をどちらに入れるかは価格条項そのもの。基本合意の段階から定義をそろえ、最終契約に明記する
ネットデットの基本形
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」参考資料2は、中小M&Aで多く使われるEV/EBITDA倍率法の算式を、次のように示しています。
事業価値(EBITDA×倍率)は、事業が生む力に対する値段です。その事業には、銀行もお金を出しています。だから、株主の取り分を出すには、銀行の取り分(有利子負債)を差し引き、事業とは別に会社が持っている現預金を足し戻す、という計算になります。
たとえば、事業価値が3億円で、銀行借入が1億5,000万円、現預金が6,000万円なら、ネットデットは9,000万円、株式価値は2億1,000万円です。
「負債類似項目」と「非事業用資産」まで広げる
中小企業庁がM&A支援機関登録制度のウェブサイトで公開している「株式価値の簡易計算」ツールの詳細計算版では、この調整をもう一歩広げています。
同ツールは、負債類似項目の例として「役員・従業員退職給付債務の未計上額、リース債務等」を、非事業用資産の例として「有価証券・保険積立金・ゴルフ会員権・遊休不動産等」を挙げています。これをもとに、実務でよく議論になる項目を整理すると、次のようになります。
| 区分 | 主な項目 | 考え方 |
|---|---|---|
| 有利子負債 | 銀行借入、社債、割引手形 | そのまま差し引く |
| 負債類似項目 | 退職給付の積立不足、決議済みで未払いの役員退職慰労金、リース債務 | 将来の現金流出が確実なものは差し引く |
| 負債類似項目(DDで判明) | 未払残業代、社会保険料の未納、追徴が見込まれる税金 | 見積額を差し引く、または特別補償で手当て |
| 負債類似項目(議論になりやすい) | 未払法人税等、未払配当、未払賞与 | 価格算定の基準日に応じて扱いを決める |
| オーナー関連 | 役員借入金(オーナーからの借入) | クロージング時の返済・譲渡・放棄などで整理 |
| 現預金 | 預金残高 | 足す。ただし事業に必要な部分は争点 |
| 非事業用資産 | 保険積立金、有価証券、ゴルフ会員権、遊休不動産 | 時価(換金した場合の手取り)で足す |
負債類似項目の多くは、決算書を見ただけでは分かりません。退職給付の積立不足は退職金規程と従業員の勤続年数から、未払残業代は勤怠記録から、追徴が見込まれる税金は税務DDから、それぞれ見積もることになります。DDの結果が出るまで価格が固まらないのは、このためです。
考え方の軸は1つです。「借入と同じように、いずれ会社からお金が出ていくもの」は負債、「事業に使っていないのにお金に換えられるもの」は資産として扱います。
現預金:すべてが「余剰」とは限らない
現預金の扱いは、売り手と買い手の利害がまともにぶつかるところです。
- 売り手の主張:「会社にある現預金は全部、株主の財産。全額を足してほしい」
- 買い手の主張:「月末に給与と仕入を払うには、常に一定の現預金が必要。その分は事業価値に含まれていて、別に足すと二重取りになる」
どちらにも理があります。実務では、月次の資金繰りの推移を見て、売上の入金と支払のタイミングのずれを埋めるのに必要な水準(月商の何か月分など、会社ごとに決める)を「必要現預金」とし、それを超える部分だけを余剰として足す、という形で合意することが多くなります。
なお、季節によって売掛金や在庫が大きく増減する会社では、現預金だけでなく運転資本全体の水準を基準日にそろえる調整が必要になります。詳しくは運転資本の調整と価格調整条項で解説します。
また、預り金(従業員から預かった源泉所得税や社会保険料など)や前受金に見合う現預金は、近いうちに出ていくお金です。決算日直後の残高だけを見て「余っている」と判断しないよう注意が必要です。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る非事業用資産:時価と税金を差し引いた「手取り」で
保険積立金や遊休不動産のような非事業用資産は、時価で足すのが基本です。ただし、「時価」をどう測るかで金額が変わります。
保険積立金は解約返戻金で
会社契約の生命保険は、決算書の保険積立金(資産計上額)ではなく、いま解約したらいくら戻るか(解約返戻金)で評価するのが一般的です。さらに、解約返戻金が資産計上額を上回る場合、その差額は会社の益金になり、法人税がかかります。厳密には、税金を差し引いた手取りで考えることになります。
売却の前に、保険契約を解約するか、オーナー個人に名義変更するかを決めることも多くあります。個人に名義変更する場合は、保険契約の権利の評価について所得税基本通達36-37の取扱いがあり、解約返戻金が低い時期の名義変更には注意が必要です。整理の仕方は役員保険の名義変更・解約と売却前の税務で解説します。
銀行も、保険積立金は解約返戻金ベースで見直して実態の純資産を見ることが多く、考え方はM&Aと共通しています。
遊休不動産は売却費用と税金も考える
使っていない土地や建物を足す場合も、鑑定評価や査定額から、売却にかかる費用と法人税を差し引いた手取りで考えるのが合理的です。買い手がその不動産を必要としない場合は、クロージング前にオーナーや別会社に移すことを求められることもあります(不動産を会社から切り離してから売る方法)。
オーナーとの貸し借りと、未払いの退職金
役員借入金・役員貸付金
中小企業では、オーナーが会社にお金を貸している(役員借入金)ことも、逆に会社がオーナーに貸している(役員貸付金)こともよくあります。
- 役員借入金:会社にとっては返すべき負債なので、ネットデットに含めて差し引く方向で扱われるのが一般的です。クロージング時に返済を受ける、株式とあわせて買い手に譲渡する、債権放棄するなどの方法で整理します。債権放棄をすると会社に債務免除益が生じ、繰越欠損金がなければ法人税がかかります(役員借入金の解消方法)
- 役員貸付金:会社の資産ですが、オーナーが本当に返せるかが問われます。売却前に返済して現預金に変えておくのが、最も分かりやすい整理です(役員貸付金の解消方法)
決議済みの役員退職慰労金
オーナーが退任時に役員退職慰労金を受け取る場合、その支払は会社の現預金を減らします。クロージング前に支払う場合はネットデットが増え(現預金が減る)、クロージング後に会社が払う約束なら負債類似項目として差し引く、というように、株式価値と退職金は表裏一体です。退職金と株式の対価の配分は、税金の手取りにも大きく影響します。
基準日と定義を契約で固める
ネットデットは、いつの時点の数字で計算するかによっても変わります。直近の決算期末の数字で価格を決めても、クロージングまでの間に借入を返したり、配当を払ったりすれば、現預金と負債は動きます。
そのため実務では、次のどちらかの方法をとります。
- クロージング調整:クロージング日の貸借対照表でネットデットを確定させ、価格を事後に精算する
- ロックドボックス:基準日の数字で価格を固定し、基準日以降に会社から売り手側へお金が流れること(配当、役員報酬の増額など)を禁止する
中小M&Aガイドラインは、株価調整条項について、調整額の算出方法があいまいだと争いになるリスクがあり、最終契約からクロージングまでの期間が短いことの多い中小M&Aでは、設けるべきか慎重に検討すべきとしています。いずれの方法でも、どの項目をネットデットに含めるかの定義を、基本合意の段階からそろえ、最終契約に明記しておくことが大切です(価格調整の方法(クロージング調整とロックドボックス))。
クレフティには、大手FASで財務DD・バリュエーションを担当してきた公認会計士・税理士が在籍しています。ネットデットの範囲の整理や、売却前の保険・貸し借り・不動産の整理を、税金への影響も含めてご支援しています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
まとめ
- ネットデット=有利子負債−現預金。株式価値=事業価値−ネットデット
- 実務では負債類似項目(退職給付の積立不足、未払の役員退職慰労金、リース債務、未払残業代など)を加え、非事業用資産(保険積立金、遊休不動産など)を差し引く
- 現預金は事業に必要な部分の扱いが争点。資金繰りの実績から合意する
- 非事業用資産は解約返戻金・売却額から税金と費用を引いた手取りで考える
- 基準日と項目の定義を基本合意の段階からそろえ、最終契約に明記する
事業価値と株式価値の関係は株式価値と事業価値の違いで、売却前の資産の整理は会社名義の車・保険・社宅などの売却前の整理で解説しています。ご相談は事業承継・M&A支援からどうぞ。
