M&Aの株式譲渡契約で、意外にもめやすいのが価格の確定の仕方です。契約を結んだ日と、株式を引き渡して代金を受け取る日(クロージング日)の間にも、会社は営業を続けています。その間に利益が出たり、現預金が減ったりすれば、会社の価値は変わります。この変化を誰が負担するのかを決めるのが、価格調整の仕組みです。
代表的な方法が、クロージング日の数字で精算するクロージング調整(完了時精算)と、過去の一定日の数字で価格を固定するロックドボックスです。この記事では、2つの方式の違い、中小企業での使い分け、税金と銀行の視点を整理します。
- クロージング調整:クロージング日の実際の現預金・借入・運転資本を確定させ、見積りとの差額を精算する。正確だが手間がかかり、争いの種になりやすい
- ロックドボックス:過去の一定日の数字で価格を固定し、その後の価値の流出(リーケージ)を禁止する。シンプルで価格が確定するが、ロックドボックス日の数字の信頼性が前提
- 中小M&Aガイドライン(第3版)は、株価調整条項は算出方法があいまいだと争いになるため、中小M&Aでは設けるべきか慎重に検討すべきとしている
- ロックドボックスでは、配当・役員報酬・退職金などを許容されるリーケージとして事前に合意しておく。受け取り方で税金の種類が変わる
- どちらの方式でも、月次決算の精度と、定義を明確にした契約書が鍵になる
なぜ価格調整が必要になるのか
M&Aの価格は、一般に次の式で考えます(企業価値と株式価値の違い)。
事業価値は、将来の収益力から決まるため、短期間では大きく変わりません。しかし、有利子負債・現預金・運転資本は、日々の営業で動きます。たとえば、契約日からクロージング日までに借入を5,000万円返済すれば、現預金も5,000万円減りますが、株式価値は変わりません。一方、売り手がこの間に役員報酬を大きく上げたり、配当を受け取ったりすれば、会社の価値は売り手に流出します。
| 価格を決める時点 | 売り手の立場 | 買い手の立場 |
|---|---|---|
| 契約時に固定 | 価格が確定して安心。その後の利益は買い手のもの | その後の損失や流出のリスクを負う |
| クロージング日の数字で精算 | その後の利益も価格に反映される | 実態どおりの価格で買える。ただし手間がかかる |
クロージング調整(完了時精算)の仕組み
流れ
クロージング調整は、次の流れで進めます。
- 契約で、基準となる価格と、調整の対象(ネットデット、運転資本など)と目標水準を定める
- クロージング日に、見積りの数字で仮の価格を支払う
- クロージング後、一定期間内にクロージング日の貸借対照表を作成し、実際の数字を確定させる
- 見積りとの差額を、売り手と買い手の間で精算する
- 数字に争いがあれば、協議し、まとまらなければ第三者の専門家に判断を委ねる
調整の対象
| 対象 | 調整の考え方 |
|---|---|
| 有利子負債・現預金(ネットデット) | クロージング日の実額で差し引く・加える(ネットデットと現預金同等物) |
| 運転資本 | 正常な水準(目標値)との差額で調整する(運転資本の調整) |
| 負債類似項目 | 未払税金、未払退職金などを差し引く(退職給付債務・未払退職金と株価) |
長所と短所
クロージング調整は、実際の数字で価格が決まるため、理屈のうえでは公平です。一方で、クロージング日の貸借対照表を誰が作るのか、どの会計方針で作るのか、在庫や引当金をどう評価するのかで、売り手と買い手の数字が食い違いやすくなります。クロージング後は買い手が会社を支配しているため、売り手は数字を検証しにくい立場になります。
ロックドボックスの仕組み
流れ
ロックドボックスは、次の流れで進めます。
- ロックドボックス日(直近の決算日や月次決算日など)を決める
- その日の貸借対照表をもとに、価格を確定させる
- ロックドボックス日からクロージング日までの間、会社の価値が売り手側に流出すること(リーケージ)を禁止する
- リーケージがあれば、売り手がその額を買い手に返す(または価格から差し引く)
- クロージング後の精算は、原則としてない
リーケージの定め方
リーケージの定義は、ロックドボックスで最も重要な部分です。
| 区分 | 例 |
|---|---|
| 禁止されるリーケージ | 売り手への配当、売り手や親族への役員報酬の増額・賞与、売り手関係者への資産の低額譲渡、売り手の債務の肩代わり、M&Aの手数料の会社負担、売り手関係者への貸付け |
| 許容されるリーケージ(事前に合意して価格に織り込む) | 通常どおりの役員報酬、契約前に決まっていた配当、合意した役員退職金、通常の取引条件での関係者との取引 |
許容されるリーケージは、金額を特定して契約書に列挙し、その分を価格に織り込みます。リストにない支払はすべて禁止、という形にすると、争いが起きにくくなります。
ロックドボックス日以降の利益は誰のものか
ロックドボックス日以降、会社が稼いだ利益は買い手のものになります。売り手は、クロージングまでの期間の利益を受け取れないかわりに、価格が確定するメリットを得ます。期間が長くなる場合、売り手の不利を補うため、ロックドボックス日からクロージングまでの日数に応じた金利相当額(ティッキングフィー)を価格に上乗せすることもあります。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る2つの方式の比較と、中小企業での選び方
| 項目 | クロージング調整 | ロックドボックス |
|---|---|---|
| 価格の確定 | クロージング後に確定 | 契約時に確定 |
| 必要な数字 | クロージング日の貸借対照表 | ロックドボックス日の貸借対照表 |
| 手間・費用 | 大きい(クロージング後の決算・検証・協議) | 小さい |
| 争いのリスク | 数字・会計方針をめぐって生じやすい | リーケージの範囲をめぐって生じ得る |
| 買い手のリスク | 小さい | ロックドボックス日の数字の誤り、期間中の業績悪化 |
| 売り手のリスク | クロージング後の減額精算 | 期間中の利益を受け取れない |
| 向いている場面 | 契約からクロージングまでが長い、業績や運転資本の変動が大きい | 期間が短い、決算の数字の信頼性が高い |
中小M&Aガイドラインの考え方
中小企業庁の「中小M&Aガイドライン(第3版)」(2024年8月)は、最終契約からクロージングまでに企業価値が変動した場合に、クロージング時に譲渡額を調整する株価調整条項について、調整額の算出方法が曖昧となった場合、争いに発展するリスクがあるとし、中小M&Aでは最終契約からクロージングまでの期間が短いことが多いため、本条項を設けるべきか慎重に検討すべきとしています。
同じガイドラインは、最終契約からクロージングまでの期間について、特段の事情なく2か月以上などの期間を設けると、業績の変化やDDで把握した内容からの変化などにより、契約の修正が必要になったり不履行が生じたりするリスクがあることにも触れています。また、クロージング後に過去の損失や過年度決算の修正が判明した場合に支払済みの対価を払い戻す支払金の返還に関する条項についても、発動する事象の設定があいまいだと争いになるリスクがあるとしています。
中小企業では、契約からクロージングまでを短くし、契約時に価格を確定させることが基本になります。これは実質的にロックドボックスに近い考え方です。その場合も、決算日以降の配当や役員報酬の変更を禁止する(あるいは合意した額だけ認める)条項は入れておくべきです。
それでもクロージング調整を検討する場面
- 許認可の取得や取引先の同意などで、クロージングまでに数か月かかる
- 季節変動が大きく、在庫や売掛金が月によって大きく変わる
- 直近の決算の数字の信頼性に不安があり、買い手がロックドボックス日の数字を受け入れにくい
この場合は、調整の対象と計算方法を計算例付きで契約に書き込み、争いになったときの解決方法(第三者の専門家の判断など)まで決めておきます。契約全体の構成は株式譲渡契約のポイント、後払いや分割払いとの組み合わせはアーンアウトと分割払いで解説しています。
税金:精算金とリーケージの受け取り方
精算金は譲渡価額の修正
クロージング調整で精算金を受け取れば譲渡価額が増え、支払えば減ります。個人が株式を売った場合、譲渡所得は最終的に確定した譲渡価額で計算します。精算が確定申告の前に済めば反映して申告できますが、申告後に確定した場合の手続きは、契約の内容や精算の事由によって変わるため、精算の期限は確定申告の時期も意識して決めておくと安心です。
許容されるリーケージは「所得の種類」が変わる
ロックドボックス日以降に売り手が会社から受け取るお金は、形によって課税の仕方が違います。
| 受け取り方 | 個人の売り手の課税 | 会社側 |
|---|---|---|
| 株式の譲渡代金 | 譲渡所得(分離課税) | ― |
| 配当 | 配当所得(非上場株式は原則として総合課税) | 損金にならない |
| 役員退職金 | 退職所得 | 不相当に高額な部分を除き損金 |
| 役員報酬 | 給与所得 | 定期同額給与などの要件を満たす部分が損金 |
同じ金額でも、株式の代金として受け取るか、配当や退職金として受け取るかで、売り手の手取りと会社の税金が変わります。特に役員退職金は、株式の価格を下げるかわりに退職所得として受け取る組み合わせが検討されることがありますが、金額が不相当に高額だと損金算入が否認されるおそれがあります。考え方はオーナーの役員報酬の正常化と死亡退職金と自社株もご覧ください。個人が株式を売るときの税金の全体像は株式譲渡の税金(個人)で解説しています。
銀行と、月次決算の精度
どちらの方式をとるにしても、前提になるのは数字の信頼性です。ロックドボックスなら基準日の貸借対照表、クロージング調整ならクロージング日の貸借対照表が、価格を左右します。毎月きちんと月次決算を締め、在庫や売掛金、未払費用を正確に計上している会社ほど、どちらの方式でも交渉がスムーズに進みます。
買い手が買収資金を借りる場合、銀行は確定した価格をもとに融資額を決めます。クロージング調整で価格が後から動くと、融資額と実際の支払額がずれることがあります。精算金の資金をどう手当てするかも、買い手の資金計画に入れておく必要があります。
売り手の側では、月次決算の精度は、M&Aの前から銀行の評価にも直結しています。著書のモデルでは、債務償還年数を(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)で計算し、10年以内を健全の目安としています。月次で数字を把握している会社は、銀行への説明も、M&Aの価格交渉も有利に進められます。売却前の準備は売却前の会社の磨き上げもご覧ください。
まとめ
- クロージング調整はクロージング日の実際の数字で精算する方式。正確だが、手間がかかり争いになりやすい
- ロックドボックスは過去の一定日の数字で価格を固定し、リーケージを禁止する方式。シンプルで価格が確定する
- 中小M&Aガイドライン(第3版)は、株価調整条項はあいまいだと争いになるため、期間の短い中小M&Aでは慎重に検討すべきとしている。契約からクロージングまでを短くし、価格を確定させるのが基本
- ロックドボックスでは許容されるリーケージを金額で特定する。配当・退職金・報酬は所得の種類が変わり、税負担に影響する
- どちらの方式でも、月次決算の精度と、定義・計算例を明記した契約書が鍵
価格調整条項の数字面の確認、許容されるリーケージと税金の試算、株価算定は、事業承継・M&A支援でご相談をお受けしています。大手FASで財務DDやバリュエーションを担当してきた公認会計士・税理士が在籍しています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
