会社を売って代金を受け取れば、M&Aは終わり。そう考えたいところですが、実際には、売却後のトラブルが起きることがあります。買い手から「聞いていた話と違う」と補償を求められる、後払いの代金や退職慰労金が支払われない、経営者保証が外れない――といった問題です。
この記事では、売却後のトラブルの型を整理したうえで、株式譲渡契約の表明保証違反と補償請求が争われた2つの判決を、裁判所ウェブサイトの判決原文で確認して紹介します。売り手に約3億円の支払が命じられた東京地裁平成18年1月17日判決と、買い手の約2.6億円の請求が全部棄却された札幌地裁令和2年12月25日判決です。結論が分かれた理由から、売り手・買い手それぞれが契約と実務で何をすべきかが見えてきます。
- 売却後のトラブルの中心は、表明保証違反・補償請求、後払いの不履行、経営者保証が外れないこと
- 東京地裁平成18年1月17日判決:会計処理の故意の秘匿を表明保証違反とし、売主側に約3億0,529万円の支払を命じた。DDは買主の権利であって義務ではないとした
- 札幌地裁令和2年12月25日判決:買主の約2億5,960万円の補償請求を全部棄却。DDで買主が知っていた事実は違反と言えない、違反があっても損失との因果関係がない、と判断した
- 分かれ目は、違反の事実の重さ、開示の有無と買い手の認識、損害の算定の根拠
- 予防は、開示の記録を残す、表明保証の対象・期間・上限を決める、補償請求の手続を決めること。紛争になったら弁護士へ
売却後に起きるトラブルの型
中小M&Aガイドライン(第3版)は、表明保証の範囲をめぐる紛争は、売り手と買い手の関係が悪化したときに生じやすく、例えば最終契約後に当初見込んでいたバリュエーションに見合った収益が実現しない場合や、DDで検出されなかった問題が顕在化し、事後的な治癒が困難な場合が挙げられるとしています。そのような場合は、感情面での対立が大きく、適切な損害額の算定も困難であることが多いため、請求が過大になりやすいとも述べています。
ガイドラインが最終契約後・クロージング後のトラブルのリスクとして挙げる項目を整理すると、次のようになります。
| トラブルの型 | 典型的な場面 | ガイドラインの指摘 |
|---|---|---|
| 表明保証違反・補償請求 | 簿外債務、会計処理の誤り、法令違反が売却後に見つかる | 期間や上限がない、適用場面が明確でない表明保証は、売り手が過大な責任を負うリスク |
| 対価の分割払い・後払いの不履行 | 買い手の資金不足、業績悪化 | 支払期間が長期にわたる場合は特にリスクが高い |
| 役員退職慰労金のクロージング後払いの不履行 | 残留を条件にした退職金が支払われない | 事業や買い手の状況によっては不履行のリスク |
| アーンアウト・価格調整の争い | 目標の定義や計算方法の解釈の違い | 条件や方法を明確かつ詳細にする必要 |
| 支払金の返還条項の争い | 過年度決算の修正などによる払戻し | 払戻しが発動する事象の設定が曖昧だと争いに |
| 経営者保証が外れない | 買い手が金融機関との調整を進めない | 解除・移行を買い手の義務とし、クロージング条件にすることを勧める |
ガイドラインはさらに、M&Aの成立後に譲り渡し側の資金を個人口座に送金するなど違法と疑われる行為や、経営者保証を移行させる想定だったのに移行しないといった最終契約に定めた義務の不履行を行う譲り受け側の存在が指摘されているとし、仲介者・FAに買い手の調査を求めています。手口と対策は悪質な買い手によるM&Aトラブルで詳しく解説しています。
以下では、裁判で争われた例が公表されている表明保証違反・補償請求を取り上げます。
判例1:東京地裁平成18年1月17日判決(売主に約3億円の支払)
消費者金融会社の全株式の譲渡で、対象会社が和解債権の返済金の充当方法を変え、必要な貸倒引当金を計上せず、注記もしていなかったことが問題になった事案です。株式譲渡契約で売主は、財務諸表の正確性、簿外債務がないこと、DDで開示されるべき情報が漏れなく開示されていることなどを表明保証していました。
| 争点 | 裁判所の判断 |
|---|---|
| 表明保証違反の有無 | 会計処理は企業会計原則などに反し、財務諸表の正確性などの表明保証に違反する。処理を開示しなかったことは情報開示の表明保証にも違反する |
| 買主が知っていたか | 売主側の「説明した」という供述は裏付けを欠き採用できない |
| 買主の重大な過失 | 買主がわずかな注意で違反を知り得たのに漫然と気付かなかった場合は売主が責任を免れる余地がある。しかし、DDは買主の権利であって義務ではなく、売主側が故意に秘匿していた本件では重過失は認められない |
| 損害額 | 価格は簿価純資産を基準にしていたため、水増し額がそのまま価格の水増し分。これに費用・弁護士費用を加えた3億0,529万3,523円 |
判決の詳しい流れは株式譲渡契約(SPA)の要点で解説しています。
東京地方裁判所 平成18年1月17日判決・平成16年(ワ)第8241号 損害賠償等請求事件。裁判所ウェブサイト(裁判例情報)
判例2:札幌地裁令和2年12月25日判決(補償請求を全部棄却)
事案の流れ
判決によれば、多数の薬局を経営する会社(買主)が、在宅調剤を専門とする保険薬局を1店舗経営する会社(対象会社)の全株式を、株主である会社と個人(売主ら)から譲り受けました。
| 時期 | 出来事 |
|---|---|
| 2016年11月 | 売主側の個人がM&Aの仲介業者に仲介を依頼 |
| 2016年12月7日 | 買主が意向表明書を提出 |
| 2016年12月8日 | DDを実施。買主側から財務面で公認会計士2名と従業員1名、事業面で従業員3名が出席 |
| 2016年12月21日 | 株式譲渡契約を締結。代金は合計2億4,501万6,000円 |
| 2017年1月5日 | 譲渡日。代金を全額支払い |
| 2017年2月3日 | 買主が表明保証違反を通知(前経営者の独立、薬剤師らの退職届、薬局の届出の範囲など) |
| 2017年4月3日 | 買主が新たな表明保証違反(報酬の不適正な請求、医師の同意のない処方変更、本人負担金の減免)を通知 |
| 2017年7月31日 | 薬局を閉鎖 |
契約では、売主らが、開示した文書・情報が真実で重要な事実の欠落がないこと(5号)、法令に明らかに違反していないこと(6号)、開示した貸借対照表以外に多額・重大な債務がないこと(18号)などを表明保証し、違反に起因する損失を補償する条項(11条)がありました。買主は、薬局を閉鎖せざるを得なくなったとして、2億5,960万7,276円の損失補償を求めました。
争点と判断
| 買主が主張した事実 | 裁判所の判断 |
|---|---|
| 報酬の不適正な請求(薬歴簿の記載不備) | 記載には適切とはいえないものが散見されるが、処方内容欄から正しい内容が明らかな誤記にすぎない。個別指導で不備を指摘されたことも監査もなく、指定取消しを受けるほどの違反ではない。また、DDの確認事項に「薬歴記載状況」が明記され、買主側の薬剤師が実物を確認して問題ないと報告したと買主の担当者が証言しており、DDで実物を見ていないという買主の主張は採用できない |
| 医師の同意のない処方内容の変更 | 同じ有効成分の医薬品への変更で、在庫がない場合に電話等で医師の同意を得ていたという売主側の説明は不自然・不合理とまではいえず、同意を得ていなかったと断定できない |
| 本人負担金の減免 | 規則に違反するが、DDの確認事項に「自己負担分減免の有無」があり、買主の担当者も減免を聞いていた。買主が知っていた以上、直ちに表明保証違反とはいえない |
| 無資格者による薬剤師業務 | 前提となる事実を認めるに足りない |
裁判所は、表明保証違反は認められないとしたうえで、仮に違反があったとしても、損失が違反に起因するとはいえないと判断しました。理由は次のとおりです。
- 譲渡後に監査は行われず、指定取消処分も、閉鎖後の取消相当の扱いも受けていない。監督官庁からも閉鎖を求められていない
- 労務費の増加は、買主がDDの前から薬剤師の補充を想定し、前経営者の長時間労働も把握していたもので、当初から想定していた。派遣人員の交通費・宿泊費など一時的な費用も含まれている
- 取引先の減少が違反の是正によるものかは明らかでない。買主は取引先を自社グループの別の薬局に振り分けることを想定し、実際に振り分けていた。譲渡後の業務へのクレームもあった
結論として、請求は全部棄却されました。
札幌地方裁判所 令和2年12月25日判決・平成29年(ワ)第1617号 損失補償請求事件。裁判所ウェブサイト(裁判例情報)。第一審の判決です。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る2つの判決の分かれ目
| 比較の観点 | 東京地裁平成18年 | 札幌地裁令和2年 |
|---|---|---|
| 問題の事実 | 会計処理の変更と引当金の未計上。財務諸表そのものの誤り | 薬歴簿の誤記、処方変更、本人負担金の減免など。行政処分には至っていない |
| 開示と買主の認識 | 売主側は開示せず、故意に秘匿 | 一部の事実はDDの確認事項で、買主が知っていた |
| 違反の重さ | 表明保証の各項目に違反 | 違反と言えない、または事実が認められない |
| 損害の算定 | 価格が簿価純資産基準だったため、水増し額=損害と算定しやすかった | 閉鎖・赤字の原因が違反にあるとは認められなかった |
| 結論 | 約3億0,529万円の支払を命令 | 請求を全部棄却 |
2つの判決から読み取れるのは、次の3点です。
- 違反の重さと「故意」:財務諸表の数字そのものを動かす処理を隠していた事案と、記録の誤記や運用の問題が中心の事案とでは、判断が大きく違った
- 何を開示し、相手が何を知っていたか:札幌地裁は、DDの確認事項と担当者の認識を丁寧に認定し、買主が知っていた事実を違反と認めなかった。開示の記録が、そのまま売り手を守る証拠になる
- 損害との因果関係:補償条項は「違反に起因する損失」を補うもの。買収後の経営判断や想定内の費用は、違反による損失とは扱われにくい
ただし、どちらも個別の事案と契約の文言に基づく判断です。「DDで見せれば必ず免責される」「誤記なら責任はない」と一般化することはできません。契約で、買主が知っていた事項を表明保証の対象から外す条項(開示による除外)を置くかどうかによっても、結論は変わりえます。
補償を請求する・される場面での実務
補償請求の手続を契約で決めておく
補償条項には、通常、請求できる期間、通知の方法と記載事項、上限・下限が定められます。札幌地裁の事案では、最初の通知(2017年2月3日)には、訴訟で主張した違反の事実は記載されていませんでした。判決はこの点を認定事実として記載しています。通知の時期と内容は、後に何をいつ知ったかの証拠になります。
| 立場 | 確認すること |
|---|---|
| 請求する側(買い手) | 契約の請求期間内か、通知の方法・記載事項を満たしているか、違反の事実と損害額の根拠を示せるか |
| 請求される側(売り手) | 開示した資料とQ&Aの記録、DDの確認事項、相手が知っていた事実、損害が違反に起因するかどうか |
期間の制限
契約に請求期間の定めがあれば、それに従います。定めがない場合でも、債権は、権利を行使できることを知った時から5年、行使できる時から10年で時効により消滅します(民法166条1項)。株式の売買では、民法の契約不適合責任(種類・品質の不適合は、知った時から1年以内の通知が必要:民法566条)がどこまで及ぶかがはっきりしないため、会社の中身についての責任は表明保証と補償で定めるのが通常です。
誰に相談するか
ガイドラインは、クロージング後の両当事者間の紛争解決(一方当事者との交渉を含む)について、仲介者・FAの役務提供は基本的にクロージング時点で終了していることや、紛争解決への関与・支援は非弁行為(弁護士法72条)に該当する可能性があることから、仲介者・FAによる支援には限界があるとし、弁護士に支援を求めることを検討する必要があるとしています。補償額の算定や会計処理の妥当性が争点になる場合は、公認会計士・税理士の意見も必要になります。
補償金の税務
売り手が補償金を支払った場合、それが譲渡代金の減額なのか、損害賠償なのかによって、売り手(個人なら譲渡所得、法人なら譲渡損益)と買い手(株式の取得価額の減額か、受取補償金の収益か)の税務の扱いが分かれうる、というのが実務の考え方です。契約書で補償金の性質と計算方法を明確にしておくことが、後の税務の説明の土台になります。どの扱いになるかは事案と契約の文言によるため、支払・受取の前に税理士に確認してください。税務の条項の作り方は株式譲渡契約書に入れるべき税務リスクの条項で解説しています。
資金繰りと銀行
売り手側は、売却代金を使い切った後に補償を求められると、手元資金が足りなくなります。補償の上限・期間に合わせて、一定期間は資金を残しておくと安心です。買い手側は、補償を受けられないまま簿外債務や追徴税額を負担すると、買収した会社の決算が悪化し、買収資金を貸した銀行の評価にも影響します。著書のモデルでは債務償還年数「(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)」10年以内を健全の目安としていますが、想定外の損失で利益が落ちると、この年数は一気に伸びます。表明保証違反のリスクを保険で手当てする方法はM&A保険(表明保証保険)をご覧ください。
売却後のトラブルを防ぐためのチェックリスト
| 時期 | 売り手が行うこと |
|---|---|
| DDの前 | 問題点を自分で洗い出し、開示する資料を整理する(事前のDD) |
| DD | 開示した資料、Q&A、口頭で伝えた事項を記録に残す |
| 最終契約 | 表明保証の対象・期間・上限、「知る限り」の限定、開示による除外、補償請求の手続を定める。無期限・無制限の条項は避ける(ガイドラインの注意) |
| 最終契約 | 分割払い・退職慰労金の後払い・アーンアウトは、保全策と計算方法まで決める |
| クロージング | 経営者保証の解除・移行を買い手の義務とクロージング条件にする |
| 売却後 | 補償期間中は、請求に備えて資料と資金を残す。通知を受けたら早めに弁護士へ |
まとめ
- 売却後のトラブルの中心は、表明保証違反・補償請求、後払いの不履行、経営者保証
- 東京地裁平成18年1月17日判決は、故意の秘匿を表明保証違反とし、約3億0,529万円の支払を命じた
- 札幌地裁令和2年12月25日判決は、買主がDDで知っていた事実や前提事実が認められない主張を退け、損失との因果関係も否定して請求を全部棄却した
- 分かれ目は、違反の重さ、開示と相手の認識、損害の根拠。どちらも個別の事案の判断で、一般化はできない
- 予防は、開示の記録、表明保証の範囲の限定、補償請求の手続。紛争になったら弁護士、税務は税理士へ
クレフティでは事業承継・M&A支援として、売り手側の事前のデューデリジェンス、表明保証の対象となる財務・税務事項の確認、補償金の税務の検討、契約条件のセカンド・オピニオンをお受けしています。初回のご相談は無料です。担当者がお話を伺い、その後は担当の公認会計士・税理士やコンサルタントが対応します。
