会社の売却が決まり、クロージングの日に売却代金が振り込まれる。長年の経営の区切りであり、ほっとする瞬間です。
けれども、売却後の1年は、実はとても忙しい1年です。翌年3月の確定申告で多額の所得税を納め、6月からは住民税、健康保険の切り替え、買い手との間の表明保証の期間、そして手元に残った現金をどうするか。売却前は「会社の数字」を見ていた経営者が、売却後は「自分と家族のお金」を設計し直すことになります。
中小企業庁の中小M&Aガイドライン(第3版)は、譲り渡し側の経営者に対し、売却を進める前に引退後のビジョンを含む希望条件をよく考えておくよう求めています。当面は事業に関わり続けたいのか、別の事業に進むのか、社会貢献活動や余暇を楽しみたいのか。この記事では、その答えを形にするための、売却後の生活設計と資産運用の考え方を整理します。特定の金融商品をおすすめするものではありません。
- 売却直後の1年は、確定申告・住民税・社会保険・表明保証とお金の出入りが集中する。まず時系列で整理する
- 手取りは「売却代金−税金−手数料−補償の備え」。表明保証の期間が終わるまでは確定していないと考える
- 資金は、生活資金・納税と予備の資金・長期の資金の3つに分けてから運用を考える
- 現金は相続税評価を下げにくい。家族名義に移すだけの対策は名義預金として否認されうる
- 銀行は売却後のオーナーの資産背景を見る。納税後の姿で、次の事業や投資の計画を立てる
売却直後1年のお金の流れ
株式譲渡で会社を売った場合の、売却後1年の主なお金の出入りを時系列にすると次のようになります。
| 時期 | お金の出入り・手続き | 確認すること |
|---|---|---|
| クロージング日 | 売却代金の受取り(一部はエスクローや分割のこともある)。仲介会社・FAへの成功報酬の支払い | 受け取る金額と時期、手数料の額 |
| 退任・退職 | 役員退職金の受取り(支給する場合)。役員報酬が止まる | 退職所得の源泉徴収、退職所得の受給に関する申告書 |
| 退職の翌日以降 | 健康保険・年金の切り替え | 任意継続・国民健康保険・扶養のどれにするか |
| 売却の翌年2月16日〜3月15日 | 所得税の確定申告と納付(株式の譲渡所得、高所得者の追加の所得税を含む) | 納税資金を確保しているか |
| 翌年6月以降 | 住民税(株式の譲渡益は5%)、国民健康保険料(加入する場合) | 前年所得をもとに計算される |
| 表明保証の期間中 | 買い手からの補償請求の可能性 | 期間・上限額・エスクローの解放時期 |
個人が株式を売ったときの税金は個人株主が株式を売ったときの税金、所得が大きい年の追加の所得税は株式売却益と高所得者の追加課税(試算)で解説しています。
社会保険の切り替え
会社を退職すると、会社の健康保険・厚生年金の被保険者ではなくなります。健康保険は、一定の要件を満たせば退職後2年間の任意継続を選べるほか、国民健康保険に加入する、家族の扶養に入る(収入の要件あり)といった選択肢があります。
中小M&Aガイドラインは、M&Aで株主である経営者個人に所得が生じた場合、所得税・住民税のほか、会社の社会保険に加入していないときは国民健康保険料または後期高齢者医療保険料にも影響があると注意しています。前年の所得で計算される保険料は、売却の翌年に高くなることがあります。
引退後のビジョンで、お金の設計は変わる
ガイドラインが挙げる引退後の過ごし方ごとに、売却後の資金計画で重視する点を整理すると、次のようになります。
| 引退後のビジョン | 資金計画で重視すること |
|---|---|
| 当面は売却した会社に関わり続ける | 顧問・役員としての報酬と期間を契約で明確に。売却代金と報酬を分けて考える |
| 別の事業を始める | 事業に投じる上限額を先に決める。失敗しても生活資金と納税資金には手をつけない |
| 社会貢献活動や余暇を楽しむ | 生活費の見積もりと、医療・介護の予備を厚めに。寄附をするなら税務上の扱いも確認 |
どれを選ぶかに正解はありません。ただ、売却の交渉が始まると、価格や条件のことで頭がいっぱいになりがちです。売却を決める前に、売却後の1日の過ごし方を想像してみることが、後悔の少ない選択につながります。
手取りを確定させる
売却代金がそのまま使えるお金になるわけではありません。手取りは、次のように考えます。
表明保証の期間が終わるまでは「確定していない」
株式譲渡契約では、売り手が会社の財務・税務・労務などについて表明保証を行い、違反があれば補償する条項が置かれるのが一般的です。補償の請求期間や上限額、代金の一部を第三者に預けるエスクローの解放時期によっては、売却後1〜2年は手取りが確定しないことになります。未払残業代や税務調査での追徴は、売却後に表面化することもあります。
| 契約の条件 | 売却後の資金計画への影響 |
|---|---|
| 補償の請求期間(例:クロージング後一定期間) | 期間中は補償に備える資金を残しておく |
| 補償の上限額 | 上限額を目安に、すぐに使わない資金として分けておく |
| エスクロー・ホールドバック | 解放されるまで手元に入らない |
| アーンアウト・分割払い | 業績や買い手の支払能力に左右される |
条項の考え方は株式譲渡契約書のチェックポイント、エスクローとホールドバックをご覧ください。
3つの財布に分けてから、運用を考える
まとまった現金を前にすると、「何に投資するか」を先に考えがちです。けれども順番は逆で、何に使うお金かを先に分けることが大切です。
| 財布 | 中身 | 置き場所の考え方 |
|---|---|---|
| ① 生活資金 | 当面の生活費、住宅や車など予定している支出 | すぐに引き出せる預金。数年分を目安に |
| ② 納税と予備の資金 | 翌年の所得税・住民税、保険料、表明保証の補償の備え、医療・介護の予備 | 元本が変動しない預金など。納税までは動かさない |
| ③ 長期の資金 | 10年以上使う予定のないお金、次の世代に残したいお金 | 分散を前提に、長期で運用を考える |
運用を考えるときの基本
ここからは一般的な考え方で、個別の投資判断の助言ではありません。具体的な商品は、ご自身の状況に応じて金融機関などと相談してください。
- 集中しない:経営者は、自社に資産の大部分を集中させてきた人です。売却後は、1つの資産・1つの金融機関・1つの通貨に偏らないことが基本になります
- 預金保険の範囲を知る:一般の預金は、1金融機関ごとに元本1,000万円までとその利息が預金保険で保護されます。大きな額を1か所に置く場合は、この仕組みを理解しておきます
- 非課税制度:NISAは、つみたて投資枠が年120万円、成長投資枠が年240万円、生涯の非課税保有限度額が1,800万円です。売却代金の規模からすると一部ですが、長期の資金の受け皿の1つになります
- うまい話に注意:会社を売ったことが知られると、投資や事業への勧誘が増えます。高い利回りを保証する話や、急いで決断を迫る話には慎重になってください
不動産投資と次の事業
売却代金で不動産投資を始める、あるいは新しい事業を始める方も多くいます。どちらも借入を使うことが多く、銀行は、売却後のオーナー個人の資産背景と、事業や物件の返済能力の両方を見ます。著書のモデルでは、債務償還年数=(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)で、10年以内が健全の目安です。手元資金があっても、返済を本業や物件の収益でまかなえるかが問われる点は、会社経営と同じです。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る相続の準備:現金は評価を下げにくい
会社を売ると、相続財産は「自社株」から「現金」に変わります。自社株は類似業種比準価額などで評価されていたのに対し、現金は額面どおりに評価されます。売却後は、相続税の負担がかえって重くなることがあります。生前贈与のルール(暦年贈与の7年加算、相続時精算課税)や生命保険の非課税枠の使い方は、会社の売却代金の使い方と相続対策で詳しく解説しています。
名義預金:裁決で見る分かれ目
売却代金を家族の名義の口座に分けて入れておく、というのはよくある発想です。けれども、名義が家族でも、実質が被相続人の財産なら相続財産になります。国税不服審判所の公表裁決では、原資を誰が出したか、通帳・印鑑を誰が管理していたか、贈与が成立していたかを総合して判断しています(公表裁決事例要旨「預貯金」)。
| 裁決 | 名義と状況 | 結論 |
|---|---|---|
| 平成19年10月4日裁決(裁決事例集No.74) | 妻名義・子名義の預貯金と有価証券。被相続人がメモで管理し、原資も被相続人 | 大部分を相続財産と認定(妻名義の普通預金1口は取消し) |
| 平成28年11月8日裁決 | 子の配偶者や孫の名義の預貯金。原資が名義人側の口座や満期保険金で、名義人側が通帳を管理 | 一部は相続財産に当たらないとして取消し |
| 令和3年9月17日裁決 | 被相続人が「贈与証」を作り、未成年の子名義の口座に毎年入金。子の法定代理人である母が贈与を受諾し、通帳を管理 | 子の財産で、相続財産に含まれない |
実務への示唆:贈与をするなら、贈与契約書を作り、受け取った人が自分で口座を管理し、必要な贈与税の申告をする。形と実態をそろえることが、後で争いにならないための基本です。
家族と話しておくこと
売却後の資産は、家族にとっても大きな関心事です。後継者がいないから会社を売った場合、子どもたちは「会社」ではなく「お金」を相続することになります。どれだけを生活と自分の人生に使い、どれだけを家族に残すのか。答えは人によって違います。売却を機に、家族で一度話し合う機会を持つことをおすすめします。
銀行・税務署から見た「売却後のオーナー」
財産債務調書と確定申告
売却の翌年は所得が大きくなるため、財産債務調書の提出が必要になる人もいます。退職所得を除く所得が2,000万円を超え、かつ12月31日に3億円以上の財産(または1億円以上の国外転出特例対象財産)を持つ人などが対象です(国税庁「No.7457 財産債務調書の提出義務」)。
銀行は「納税後の姿」を見る
銀行は、売却直後の預金残高ではなく、納税後に残る資産で個人の資産背景を評価します。売却直後に借入を申し込み、翌年の納税で預金が大きく減ると、説明に困ることになります。次の事業や投資のための借入は、納税を終えた後の資産で計画を組み立てるのが確実です。
売却後も会社に残る場合
売却後も一定期間、顧問や役員として会社に残る場合は、その報酬や業務内容を契約で明確にしておきます。株式の対価と役員の報酬の関係があいまいだと、税務上の扱いが問題になることがあります(アーンアウト・分割払い・役員としての残留)。
まとめ
- 売却後1年は、確定申告・住民税・社会保険・表明保証とお金の出入りが集中する。時系列で整理する
- 手取りは、税金・手数料・補償の備えを差し引いて考え、表明保証の期間が終わるまでは確定していないと考える
- 資金を生活資金・納税と予備の資金・長期の資金に分けてから、運用を考える。集中を避け、勧誘に注意する
- 現金は相続税評価を下げにくい。家族名義に移すだけでは名義預金として相続財産になりうる
- 銀行は納税後の資産で評価する。次の事業や投資は、その姿で計画する
クレフティでは、売却前の手取り額の試算から、売却後の確定申告、相続税の試算と生前贈与の設計、次の事業や不動産投資の資金調達まで、事業承継・M&A支援の中でご相談をお受けしています。初回のご相談は無料です。担当者がお話を伺い、その後は担当の公認会計士・税理士やコンサルタントが対応します。
