M&Aの最終契約の交渉で、買い手から「代金のうち一部は、1年間エスクローに預けさせてください」と提案されることがあります。エスクローやホールドバックは、売却後に表明保証違反などが見つかったときの補償に備えて、代金の一部をすぐには売り手に渡さない仕組みです。
売り手から見れば、受け取れるはずのお金が一定期間手元に来ないうえ、税金は先にかかることがあります。買い手から見れば、売り手が引退した後でも補償を確実に受けられる手段です。この記事では、エスクローとホールドバックの仕組み、金額・期間・解放条件の決め方、中小企業庁「中小M&Aガイドライン(第3版)」が指摘するリスク、そして預けた代金にいつ課税されるかを公表裁決事例で解説します。
- エスクローは代金の一部を第三者に預ける方法、ホールドバックは買い手が支払を留保する方法。どちらも補償の実効性を確保するための仕組み
- 決めるべきことは「金額」「期間」「解放の条件と手続」「補償請求があったときの扱い」「利息・費用の負担」
- 公表裁決では、エスクローに預けた部分も含めて株券の引渡しの年に譲渡所得の収入金額とされた。受取りが翌年でも、税金は先に来る
- 留保が長いほど売り手のリスクは大きい。表明保証の範囲・上限の調整、表明保証保険、価格調整と比べて選ぶ
エスクロー・ホールドバックとは何か
株式譲渡契約では、売り手が会社の財務・税務・労務などについて事実を表明し保証し(表明保証)、それが事実と違った場合に買い手の損害を補う約束(補償)を入れるのが一般的です。表明保証と補償の基本は株式譲渡契約の要点で詳しく説明しています。
問題は、補償の約束があっても、売り手がお金を使ってしまった後や、連絡が取れなくなった後では回収が難しいことです。そこで、代金の一部をあらかじめ確保しておく方法が使われます。
| 項目 | エスクロー | ホールドバック |
|---|---|---|
| 代金の一部を持っている人 | 第三者(銀行などのエスクローエージェント) | 買い手自身 |
| 払い出しの方法 | エスクロー契約で決めた条件・指示に従う | 株式譲渡契約で決めた時期・条件で買い手が支払う |
| 売り手から見たリスク | 第三者が管理するため、買い手の資金繰りの影響を受けにくい | 買い手の支払能力・誠実さに依存する |
| 手間・費用 | エスクロー契約の締結、手数料がかかる | 契約条項だけで足りる |
| 向いている場面 | 留保額が大きい、期間が長い、当事者の信頼関係がまだ浅い | 留保額が小さい、期間が短い、買い手の信用力が高い |
似たものに、代金の分割払いや、業績に応じて追加の対価を払うアーンアウトがあります。分割払いは買い手の資金不足を補うためのもの、アーンアウトは将来の業績の不確実性を価格に反映するためのもので、目的が違います。違いはアーンアウト・分割払い・役員としての残留をご覧ください。
中小M&Aガイドラインが指摘する「クロージング後の支払」のリスク
中小M&Aガイドライン(第3版)は、最終契約に基づく支払や手続はクロージング時に実行することが基本だとしたうえで、依頼者の希望などで支払がクロージング後になる場合を挙げ、決済の遅れや契約の解釈の違いで争いに発展するリスクがあるため、慎重な検討が必要だとしています。とくに、譲渡対価の分割払いについては、クロージング後の事業や買い手の状況によっては不履行になるリスクがあり、支払期間が長いほどリスクが高いと指摘しています。
また、ガイドラインは、過去の取引に基づく損失や過年度決算の修正などが生じた場合に、支払済みの譲渡対価を売り手から買い手に払い戻す「支払金の返還に関する条項」についても、払戻しのきっかけになる事象の定め方があいまいだと争いになりやすいとしています。
エスクロー・ホールドバックは、この「クロージング後の支払」と「支払金の返還」を、あらかじめお金を確保したうえで行う仕組みだといえます。返還条項だけを置くと、売り手が受け取った代金を返してもらう交渉になりますが、エスクローなら、補償に充てるお金が最初から確保されています。その代わり、売り手にとっては代金の一部が一定期間拘束されることになります。
金額・期間・解放条件の決め方
何を担保するのかを先に決める
エスクローの金額や期間について、公的な資料で示された「相場」はありません。決め方の出発点は、何のリスクを担保するのかです。
| 担保したいリスクの例 | 金額の考え方 | 期間の考え方 |
|---|---|---|
| 一般的な表明保証違反 | 補償の上限額との関係で決める | 表明保証の存続期間(補償請求ができる期間)に合わせる |
| 税務調査での追徴(特定の論点) | DDで見積もった追徴税額・加算税・延滞税の幅 | 更正の期間制限や調査の時期を考えて決める |
| 係争中の訴訟・未払残業代の請求 | 想定される支払額の幅 | 判決・和解の見込み時期 |
| 運転資本・純有利子負債の価格調整 | 調整額の見込みの幅 | クロージング後の調整額の確定まで |
税務調査のリスクについては、国税通則法70条で、更正の期間制限は原則として法定申告期限から5年、偽りその他不正の行為があった場合は7年と定められています。だからといって5年もエスクローを続けるのは売り手の負担が重すぎるため、DDで見つかった具体的な論点ごとに金額と期間を絞るのが現実的です。売却後の税務調査の責任分担は売却後に税務調査が来たらで詳しく扱います。
契約で決めておくこと
- 留保する金額と、その根拠(どのリスクに対応するのか)
- 留保期間と、期間満了時の払い出しの手続(誰の指示で、いつまでに払うか)
- 補償請求の方法(書面での通知、請求の期限、金額の根拠の示し方)
- 請求に争いがあるときの扱い(争いのある金額だけ留保を続け、残りは払い出すか)
- 一部解放の有無(期間の途中で一部を払い出すか)
- 預けたお金の利息の帰属、エスクローエージェントの手数料の負担
- 補償の上限・下限との関係(エスクロー額を超える補償を求められるのか)
とくに3と4があいまいだと、期間満了の直前に買い手が根拠の薄い補償請求をして、払い出しが止まることがあります。請求には損害の内容と金額の根拠を示すこと、争いのない部分は先に払い出すことを、契約に書いておくと安心です。
売り手から見た交渉のポイント
売り手としては、留保額と期間をできるだけ小さく・短くしたいところです。そのための材料は、売る前の準備で問題を減らしておくことです。決算書の整理、未払残業代の精算、契約書の整備などを進めておけば、DDで見つかる問題が減り、買い手が留保を求める理由も小さくなります。準備の進め方は売る前の磨き上げをご覧ください。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見るエスクローに預けた代金にいつ課税されるか(裁決事例)
平成12年4月14日裁決:引渡しの年の収入とされた
売り手にとって見落としやすいのが税金のタイミングです。国税不服審判所の平成12年4月14日裁決(裁決事例集No.59 99頁)は、まさにエスクローが使われた株式譲渡の事案です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事案 | ソフトウエア開発会社の株主らが、株式と新株引受権を買収会社に総額43億5,000万円で譲渡。そのうち4億9,500万円を、売り手の補償責任を担保するため、エスクロー契約に基づき1年間銀行に預託した |
| 経過 | 株券等の引渡しは平成9年3月。エスクロー期間終了後の平成10年3月に、預託金の全額と利息が売り手側に支払われた |
| 売り手の主張 | エスクロー部分は期間が終わるまで受け取れる金額が確定しないので、平成10年分の収入だ |
| 審判所の判断 | 譲渡所得の収入すべき時期は、原則として資産の引渡しがあった日。引渡しの日に代金の総額について請求権が確定しており、不確実なのは補償責任の有無にすぎない。エスクローは代金の支払方法に条件が付されただけで、分割払いや先付小切手と変わらない。エスクロー部分も含めて平成9年分の収入金額とした更正処分は適法 |
| その他 | エスクロー部分に対応する仲介報酬も、平成9年分の譲渡費用とされた。過少申告加算税も適法 |
国税不服審判所 平成12年4月14日裁決(裁決事例集No.59 99頁)。公表裁決事例
実務への示唆
この裁決から、売り手は次の点を押さえておく必要があります。
- 税金は代金の総額で、引渡しの年に計算する前提で考える。エスクロー部分を翌年に回して申告すると、過少申告になるおそれがある
- 納税資金はクロージング時に受け取った分から確保する。代金の一部が拘束されても、譲渡益にかかる20.315%(所得税・復興特別所得税・住民税)は総額で計算される。株式譲渡の税金の計算は個人株主が株式を売ったときの税金で解説しています
- 仲介手数料などの譲渡費用も同じ年にまとめて控除する
なお、所得税基本通達36-12は、譲渡所得の収入すべき時期を資産の引渡しがあった日とし、納税者の選択で契約の効力発生日とすることも認めています。法人株主が売り手の場合は、有価証券の譲渡損益は原則として譲渡に係る契約をした日の事業年度に計上します(法人税法61条の2第1項)。いずれにしても、「エスクローが解放された時」を基準にするわけではありません。
補償でエスクローから買い手に払われた場合
では、補償請求が認められ、エスクローから買い手にお金が払われた場合、売り手の譲渡所得はさかのぼって減るのでしょうか。所得税法152条と所得税法施行令274条は、申告の前提になった行為が無効になった・取り消された場合などに、事実が生じた日の翌日から2か月以内に限って更正の請求ができると定めていますが、表明保証違反の補償が、そのまま譲渡代金の減額として扱われるかは、契約の定め方(代金の減額と定めているか、損害賠償と定めているか)や事実関係によって判断が分かれうる論点です。契約書を作る段階で、補償金の性質をどう定めるかを税理士と確認しておくことをおすすめします。
エスクロー以外の選択肢と、銀行・資金の見え方
ほかの方法との比較
| 方法 | 売り手の負担 | 買い手の安心 |
|---|---|---|
| エスクロー | 代金の一部が一定期間拘束される。手数料がかかる | 補償の原資が確保される |
| ホールドバック | 買い手の支払能力に依存する | 原資は手元にあるが、支払を巡る争いになりやすい |
| 表明保証保険 | 保険料の負担方法を交渉。売り手の補償責任を軽くできる場合がある | 保険会社から補償を受けられる |
| 価格の引下げ | 確実に手取りが減る | リスクを価格で織り込む |
| 特別補償(特定の論点に限定) | 対象が限られる分、負担を見通しやすい | 対象のリスクには手厚い |
ガイドラインは、表明保証保険の活用によって、表明保証や補償の範囲をめぐる交渉が円滑になる場合もあるとしています。詳しくはM&A保険(表明保証保険)とはをご覧ください。運転資本の変動に備えるなら、エスクローよりも価格調整の方法(クロージング調整とロックドボックス)で対応するほうが筋がよい場合もあります。
買い手の資金調達との関係
買い手が銀行融資で買収資金を調達する場合、エスクロー部分も含めた代金の総額をクロージング時に用意する必要があります。ホールドバックなら、留保分の支払時期が後になるため、資金繰りに余裕が生まれますが、売り手からは「買い手は本当に払えるのか」が問われます。買収資金の調達の考え方はM&Aの買収資金の融資で解説しています。
売り手の側では、クロージングで受け取る現金が減る分、オーナー個人の借入の返済や、売却後の生活資金・再投資の計画も、受け取れる時期に合わせて組み立てる必要があります。税金は総額で先に来るため、手元の資金が一時的に薄くなる時期がないか、試算しておくと安心です。
まとめ
- エスクローは代金の一部を第三者に預ける方法、ホールドバックは買い手が支払を留保する方法。どちらも表明保証違反などに備えて補償の実効性を確保する仕組み
- 中小M&Aガイドラインは、クロージング後の支払や支払金の返還条項について、決済の遅れや解釈の違いで争いになるリスクを指摘している
- 金額・期間は「何のリスクを担保するか」から決める。請求の方法、争いがあるときの扱い、一部解放、利息・費用の負担を契約に書く
- 公表裁決(平成12年4月14日)は、エスクロー部分も含めて株券の引渡しの年の収入金額とした。受け取る前に税金がかかる前提で納税資金を確保する
- 補償が支払われたときに譲渡所得が減るかは、契約の定め方で判断が分かれうる。契約段階で税理士と確認する
エスクローやホールドバックの条件は、手取りの時期と税金の時期を同時に見て決めることが大切です。クレフティでは事業承継・M&A支援として、留保条件を含めた手取り額と納税資金の試算、表明保証・補償条項の税務面からの確認をお手伝いしています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺います。
