「社長が引退するらしい」「会社が売られるらしい」。こうした話は、正式に伝える前に社内に広がることがあります。そのとき従業員が最初に考えるのは、自分の雇用と給料はどうなるのかということです。不安が広がると、優秀な人から辞めていき、承継そのものが揺らぎます。
この記事では、事業承継で従業員が不安にならないために、承継の形ごとに雇用と労働条件がどうなるかを法律の条文で確認し、会社分割の協議と、退職金の不利益変更への同意をめぐる2つの最高裁判例を紹介します。そのうえで、伝える順番と内容を整理します。
- 親族内承継・社内承継・株式譲渡では、会社が同じなので雇用と労働条件はそのまま。まずこの事実を伝える
- 事業譲渡は従業員の個別の同意が必要(民法625条1項)。会社分割は労働契約承継法の通知・協議の手続に従う
- 会社分割で協議が全くないか著しく不十分なら、従業員は承継の効力を争える(最高裁平成22年7月12日判決)
- 退職金などの不利益変更は、署名押印があっても十分な説明がなければ同意と認められないことがある(最高裁平成28年2月19日判決)
- 伝える順番は、後継者・幹部→全従業員→取引先・銀行が基本。雇用・給与・退職金・新社長の4点に答える
従業員が不安に思うこと
承継の場面で従業員が気にすることは、おおむね次のとおりです。
| 不安 | 従業員の本音 | 答えるべきこと |
|---|---|---|
| 雇用 | 辞めさせられるのではないか | 雇用契約がどうなるか(続くのか、移るのか) |
| 給与・賞与 | 給料が下がるのではないか | 労働条件を変える予定があるか |
| 退職金 | 今までの分はどうなるのか | 退職金規程と、積立・引当の状況 |
| 新しい社長 | どんな人か、やり方が変わるのか | 後継者の経歴と経営方針 |
| 職場 | 勤務地や担当が変わるのか | 組織・拠点の変更予定 |
| 先代 | 前の社長はもう来ないのか | 先代の関わり方(会長・顧問など) |
承継の形ごとに、雇用と労働条件はどうなるか
| 承継の形 | 雇用契約 | 労働条件 | 根拠 |
|---|---|---|---|
| 親族内承継・社内承継(代表の交代、株式の贈与・売買) | 会社との契約なのでそのまま | 変わらない(変更するなら別の手続) | 会社は同じ法人 |
| M&Aの株式譲渡 | そのまま | 変わらない(買収後の統合で見直すことはある) | 株主が変わるだけ |
| 事業譲渡 | 移るには従業員一人ひとりの同意が必要 | 譲受会社との新たな合意による | 民法625条1項 |
| 会社分割 | 承継される事業に主として従事する労働者などは、分割契約・計画の定めに従って移る | 原則としてそのまま承継 | 労働契約承継法 |
| 合併 | 存続会社に包括的に承継 | 原則としてそのまま。統合のために見直すことはある | 会社法 |
事業譲渡:同意がなければ移らない
民法625条1項は、使用者は労働者の承諾を得なければ、その権利を第三者に譲り渡すことができないと定めています。事業譲渡で従業員を譲受会社に移すには、一人ひとりの同意が必要です。同意しない従業員は譲渡会社に残ることになりますが、譲渡会社に仕事が残らなければ、別の問題が生じます。詳しくは事業譲渡で従業員はどうなるかで取り上げます。
会社分割:通知と協議の手続
会社分割では、労働契約承継法により、分割会社は、承継される事業に主として従事する労働者などに対し、労働契約を承継会社が承継するかどうかなどを書面で通知しなければなりません(同法2条)。承継される事業に主として従事しているのに、承継の対象とされなかった労働者は、書面で異議を申し出ることができます(同法4条)。
最高裁判例に学ぶ「説明」の重み
会社分割の協議:最高裁平成22年7月12日判決
最高裁平成22年7月12日第二小法廷判決(平成20年(受)1704号、民集64巻5号1333頁)は、新設分割で設立会社に労働契約が承継されるとされた労働者が、承継の効力を争った事案です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 判断の枠組み | 法が求める労働契約の承継に関する協議(商法等改正法附則5条1項)が全く行われなかった場合、または説明や協議の内容が著しく不十分で法の趣旨に反することが明らかな場合は、労働者は承継の効力を争える |
| 本件の事情 | 会社は労働者の代表者への説明資料を使って説明し、承継に納得しない労働者とは最低3回協議した。労働者を代理する労働組合とは7回協議し、書面のやり取りもした |
| 結論 | 説明や協議の内容が著しく不十分とはいえず、承継の効力は否定されない(労働者の上告棄却) |
この判決が示しているのは、会社分割では、手続としての説明と協議を尽くしたかどうかが、承継の効力そのものを左右しうるということです。設立会社の将来の経営見通しなど、答えられないことに答えなかったのは相応の理由があるとされた点も、説明の範囲を考えるうえで参考になります。
退職金の不利益変更:最高裁平成28年2月19日判決
最高裁平成28年2月19日第二小法廷判決(平成25年(受)2595号、民集70巻2号123頁)は、合併で消滅する信用協同組合の職員が、退職金の支給基準を引き下げることに同意する書面に署名押印していた事案です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 事案 | 経営破綻を避けるための合併に際し、退職金総額を従前の2分の1以下としたうえで年金の現価相当額などを控除する基準に変更。自己都合退職では退職金が0円になる可能性が高かった |
| 判断の枠組み | 賃金や退職金の不利益変更への同意は、署名押印などの行為があるかだけでなく、不利益の内容と程度、経緯と態様、事前の情報提供や説明の内容などに照らし、自由な意思に基づくと認めるに足りる合理的な理由が客観的にあるかという観点からも判断すべき |
| 結論 | 情報提供や説明の内容について十分に審理しないまま同意があるとした原審の判断は違法。破棄差戻し |
承継をきっかけに、退職金制度や給与体系を見直したいと考える後継者や買い手は少なくありません。しかし、同意書に署名をもらえば足りるわけではない、ということをこの判決は示しています。就業規則の変更で労働条件を不利益に変える場合も、変更の必要性、内容の相当性、労働組合等との交渉の状況などに照らして合理的であることが求められます(労働契約法10条)。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る伝える順番と内容
承継の形で変わるタイミング
| 承継の形 | 伝える時期の目安 | 理由 |
|---|---|---|
| 親族内承継・社内承継 | 後継者が決まり、時期の見通しが立った段階で早めに | 後継者が社内で信頼を得る時間が必要 |
| M&A | 最終契約の締結前後。まず幹部・キーマン、次に全従業員 | 情報が漏れると交渉や取引先に影響する |
M&Aの場合の伝え方は従業員・取引先・銀行に売却をどう伝えるかで詳しく解説しています。売却時にキーマンをどう引き留めるかは売却時に幹部・キーマンをどう引き留めるかで取り上げます。
伝える内容
- 雇用:雇用契約はそのまま続く(または、どの会社に移るか)
- 給与・賞与:当面、労働条件を変える予定はあるか
- 退職金:これまでの勤続期間の退職金はどう扱われるか
- 新しい社長:誰が、どんな方針で経営するのか。先代はどう関わるのか
「変える予定はない」と言える部分は、はっきり言うことが安心につながります。逆に、まだ決まっていないことを「変わらない」と約束すると、後で変更するときに信頼を失います。決まっていることと、決まっていないことを分けて伝えるのが基本です。
説明したあとにすること
一度の説明会で不安が消えることはありません。説明のあとも、次のような場を用意しておくと、従業員の受け止め方が変わります。
| 時期 | やること | ねらい |
|---|---|---|
| 説明の直後 | 部署ごと・個別に質問を受ける場を設ける | 全体の場では聞きにくいことを拾う |
| 1〜3か月 | 後継者(買い手)が現場を回り、従業員と話す | 新しい経営者の人柄と方針を直接知ってもらう |
| 半年〜1年 | 約束したこと(雇用・処遇)が守られているかを示す | 「言っていたことと違う」という不信を防ぐ |
| 制度を見直すとき | 見直しの理由、影響、経過措置を事前に説明し、意見を聞く | 不利益変更の合理性と、自由な意思による同意の前提をつくる |
最後の点は、上で紹介した最高裁平成28年判決とつながります。制度を見直すときに情報提供と説明を尽くしたかどうかは、法的な効力にも、従業員の信頼にも影響します。
お金の面からの備え
退職金の積立と引当
従業員がもっとも気にするのが退職金です。退職金規程があるのに、会社に積立や引当がない場合、承継のタイミングで「本当に払えるのか」が問題になります。M&Aでは、退職給付債務は株価の計算で負債として扱われ、売却価格を下げる要因になります(退職給付債務・未払退職金は株価にどう影響するか)。中小企業退職金共済などの外部積立を使っている場合は、その旨を伝えると安心材料になります。
未払残業代などの労務リスク
承継の前に、未払残業代や社会保険の加入漏れなどの労務の問題を整理しておくことも、従業員の信頼を守ることにつながります。M&Aでは、こうした問題は労務DDで見つかり、価格や契約条件に反映されます(労務DDと未払残業代のリスク)。
社内承継と銀行
役員や従業員が後継者になる社内承継では、後継者が株を買う資金と、会社の借入の経営者保証の引継ぎが課題になります。従業員出身の後継者に先代と同じ保証を求めることは、承継の大きな障害です。著書のモデルでは、銀行格付けを安全性・収益性・成長性・返済能力の129点満点で評価し、プロパー融資の目安を「正常先+純資産1億円」としています。承継の前に財務を強くしておくことは、保証の交渉材料になるだけでなく、従業員の雇用を守ることにもつながります(社内後継者と経営者保証・借入の引継ぎ)。
まとめ
- 親族内承継・社内承継・株式譲渡では雇用と労働条件はそのまま。この事実を最初に伝える
- 事業譲渡は個別の同意、会社分割は労働契約承継法の通知・協議が必要
- 会社分割の協議が全くないか著しく不十分なら承継の効力を争える(最高裁平成22年7月12日判決)
- 退職金などの不利益変更は、署名押印だけでは足りず、十分な情報提供と説明が必要(最高裁平成28年2月19日判決)
- 雇用・給与・退職金・新社長の4点に答え、決まっていることと決まっていないことを分けて伝える
買収後の統合の進め方は買収後の統合(PMI)で失敗しないために、従業員が株主になる仕組みは従業員持株会のメリットと出口の問題もご覧ください。クレフティでは事業承継・M&A支援として、承継の形ごとの税務・財務の検討、退職金債務の把握、金融機関への説明資料づくりをお受けしています。労働条件の変更や会社分割の手続は、社会保険労務士・弁護士と確認しながら進めることをおすすめします。初回のご相談は無料です。担当者がお話を伺い、その後は担当の公認会計士・税理士やコンサルタントが対応します。
