M&Aの交渉で、買い手から次のような条件を示されることがあります。「株式の代金は少なめにさせてください。その代わり、社長には2〜3年会長として残っていただき、退任のときに退職金をしっかりお支払いします」。
一見すると、売り手にとって税金面でも有利に見える提案です。退職金は退職所得控除と2分の1課税があるため、株式の譲渡益(20.315%)より税負担が軽くなる場合があります(退職金と株式売却の税率の違い)。しかし、譲渡から時間をおいて多額の退職金を受け取る条件には、払われない、税務上否認される、会社の滞納に巻き込まれる、という3つのリスクがあります。
この記事では、中小企業庁の注意喚起と、国税不服審判所・裁判所で確認できた実例をもとに、なぜ危ないのか、どうすれば安全に受け取れるのかを整理します。
- 中小企業庁は、低額の譲渡対価と、一定期間後の多額の退職慰労金という条件に特に注意するよう呼びかけ、退職慰労金が支払われなかった事例を紹介している
- 退職慰労金は会社が払い、株主総会の決議が必要。売却後の株主は買い手なので、売り手は支払を自分で確保できない
- 残留期間中に経営に関与し続ければ退職の事実が、退職直前に報酬を上げれば金額の相当性が否認されるおそれがある
- 会社の財産を退職金で移しすぎると、会社が滞納した場合に第二次納税義務を負った裁決がある
- 原則はクロージング時に受け取る。後払いにするなら、決議・担保・保証・金額の水準を契約前に固める
中小企業庁が注意喚起している「後払いの退職慰労金」
中小企業庁は2024年8月30日、「M&Aに関するトラブルにご注意ください」を公表しました。そこでは、売却を検討する中小企業に、特に注意してほしいケースとして次の2つを挙げています。
- 売り手の財務状況が厳しく、経営者保証の扱いが重要になる場合
- クロージング時点では低額の譲渡対価で、クロージングから一定期間後に相当程度の譲渡対価を支払うという条件を提示されている場合
そして、トラブル事例の一つとして、M&Aの成立時点の譲渡対価は低額で、成立後一定期間後に相当程度の退職慰労金を支払う契約を結んだが、契約に定める期日が来ても退職慰労金が一向に支払われない、というケースを紹介しています。少しでも違和感がある場合は、弁護士や各都道府県の事業承継・引継ぎ支援センターに相談するよう求めています。
さらに中小企業庁は2025年1月24日、不適切な譲り受け側とのM&Aを支援した登録M&A支援機関1社の登録を取り消し、6社に注意を発出したと公表しています(2024年10月にも15機関に注意)。悪質な買い手の手口は悪質な買い手・トラブル事例と身を守る方法と「吸血鬼スキーム」の手口と見抜き方で詳しく解説しています。
リスク1:退職金が払われない(法的な構造の問題)
退職金を払うのは「買い手」ではなく「会社」
株式の代金は買い手が払いますが、退職慰労金を払うのは売却した会社です。取締役の退職慰労金は、会社法361条の報酬等として株主総会の決議で決めるのが一般的です。売却後の株主総会を開くのは、株式を持っている買い手です。
| 株式の代金 | 後払いの退職慰労金 | |
|---|---|---|
| 払う人 | 買い手 | 売却した会社 |
| 支払の前提 | 株式譲渡契約 | 会社の株主総会の決議(売却後は買い手が決める) |
| 払われないときの請求先 | 買い手 | 会社に請求できるか、買い手の契約違反として請求するかを検討する必要がある |
| 回収の原資 | 買い手の資金 | 会社の資金(売却後に買い手が引き出していれば残らない) |
株式譲渡契約で「買い手は、売り手に退職慰労金を支給させる」と約束しても、それは買い手の義務です。買い手が決議をしない、会社の資金を引き上げてしまう、といった場合、売り手は契約違反として買い手に請求するしかありません。買い手に資力がなければ、回収は困難です。
会社に資金が残っているとは限らない
中小企業庁のもう一つの事例では、クロージング後に買い手が売り手の会社の現預金などの資産を回収し、必要な事業資金を送金しなかったため、会社が倒産しています。退職金の原資となるはずの会社の資金が、支払時期までに残っている保証はありません。
リスク2:税務上、退職金として認められない
仮に支払われたとしても、税務上の問題が残ります。
残留期間中の関与で「退職の事実」が否定される
売却後に会長・顧問として残る場合、退職時点で実質的に退職したといえるかが問われます。東京地裁平成29年1月12日判決(税務訴訟資料第267号順号12952)は、代表取締役を退いた後も常勤の相談役として毎日出社し、取引銀行と単独で交渉していた前代表への退職慰労金5,609万円余りについて、損金算入を認めませんでした。
逆に、令和2年12月15日裁決は、代表取締役・取締役を辞任した元代表者への退職金7億2,500万円について、退任後に報酬を受けておらず、経営に従事していたことを示す退職当時の客観的な証拠もないとして、損金算入を認めています。退任後にどう関わったかが、そのまま結論を分けています。判断のポイントは「実質的に退職した」と認められる実務で整理しています。
退職直前・退職後の報酬の引上げで「金額」が否認される
退職金を「最終月額報酬×勤続年数×功績倍率」で計算する場合、退職直前に報酬を上げれば退職金は大きくなります。東京地裁令和2年3月24日判決(同第270号順号13403、確定)は、月額25万円だった元取締役の報酬を、辞任後にさかのぼって月額100万円に増額し、功績倍率8倍で計算した2億7,000万円の退職金について、最終月額報酬は退職金の算定根拠を整える目的で決められたとして、1年当たり平均額法で相当額を約3,268万円と計算しました。
売却後に「買い手の会社のルール」で報酬を変えると、最終月額報酬が在職中の功績を反映しない数字になることがあります。金額の判例は役員退職金の金額が過大とされた判例で詳しく紹介しています。
買い手グループで新たに役員になった場合
売却後、買い手の親会社やグループ会社で新たに役員に就き、そこで受け取る退職金は、その会社での勤続年数で計算されます。役員等としての勤続年数が5年以下の退職金は特定役員退職手当等として、2分の1課税が適用されません(国税庁タックスアンサーNo.1420)。「2〜3年後にグループ会社から退職金を」という条件は、この点も確認が必要です。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見るリスク3:会社の滞納に巻き込まれる(第二次納税義務)
令和5年12月14日裁決は、退職金と会社の財産の関係を考えるうえで重要な事例です。
- 会社は納税の猶予を受けるほど資金繰りが苦しく、のちに破産した
- 会社は元役員(元代表者)に、不動産、生命保険契約の契約者の地位、現金などを退職慰労金として支給した。あわせて、元役員への貸付金の利息相当分を免除した
- 税務署は、同業類似法人の平均功績倍率1.09倍で相当額を計算し、支給額はその7倍を超えるとして、差額を国税徴収法39条の「無償又は著しく低い額の対価による譲渡」と判断した
- 元役員に、会社の滞納国税について第二次納税義務を課した
審判所は、平均功績倍率法による相当額と実際の支給額の乖離の程度などから、この処分を支持しました(審査請求は棄却)。退職金の名目でも、会社の財産を相当額を大きく超えて移せば、受け取った人が会社の税金を負担させられることがあります。
この事案はM&Aの事例ではありませんが、売却後に会社の資金繰りが悪化してから多額の退職金を受け取る状況は、構造がよく似ています。会社が債務超過に近い状態での支給は、税金だけでなく、他の債権者との関係でも問題になりえます。
- 東京地裁平成29年1月12日:税務訴訟資料(PDF)/東京地裁令和2年3月24日:税務訴訟資料(PDF)
- 令和2年12月15日裁決:国税不服審判所/令和5年12月14日裁決:国税不服審判所
クロージング時払いと後払いの比較
| 項目 | クロージング時に退職金を受け取る | 数年後に退職金を受け取る |
|---|---|---|
| 支払の確実性 | 高い(売り手が株主のうちに決議・支払ができる) | 買い手の意思と会社の資金に左右される |
| 退職の実態 | 退任と同時なら説明しやすい | 残留期間中の関与によって否定されるおそれ |
| 金額の相当性 | 売却前の報酬・勤続年数で計算できる | 残留期間の報酬の変化が影響する |
| 株式の価格との関係 | 退職金の分だけ純資産が減り、株式の価格に反映される | 低い株価で売った後、約束が守られなければ取り返せない |
| 会社の財務 | 支給の期に赤字になる。買い手は買収資金の計画に織り込む | 支給時期の会社の資金繰りしだい |
後払いにせざるを得ないときの備え
事業の引継ぎのために一定期間残ることが必要で、退職金を後払いにせざるを得ない場合は、少なくとも次の点を契約前に固めます。
- 支給の決議をクロージング前に済ませる:売り手が株主のうちに、支給額・支給時期を株主総会で決議しておけるか
- 支払の担保:代金の一部留保(エスクロー)、買い手の親会社や代表者の保証、担保の設定ができるか
- 契約違反の効果:期日に払われない場合の違約金、株式の買戻し、契約解除の条項
- 金額の水準:同業類似法人の水準を大きく超えていないか。最終月額報酬を残留期間中に変えない
- 残留期間中の役割:代表権を持たず、決裁・銀行交渉・人事に関与しない範囲を書面で決める
- 経営者保証:残留期間中も保証が外れていなければ、退職金を待つ間に会社が倒産したとき負債が自分に返ってくる(M&Aで経営者保証を外すための実務)
- 買い手の資力:決算書、預金残高、過去のM&Aの後に買収先がどうなったか
銀行の目線では、売却後に多額の退職金を払う予定がある会社は、その資金の手当てができているかが問われます。買い手が買収資金を借りている場合、退職金の支払は返済原資を削るため、金融機関との調整なしに払えないこともあります。著書のモデルでは、債務償還年数「(借入金−現預金)÷(経常利益+減価償却費−法人税等)」10年以内を健全の目安としており、退職金の支払でこの数字が大きく悪化する計画は、実行されない可能性が高いと考えるべきです。
まとめ
- 「株価は低く、退職金は後で多く」という条件は、中小企業庁が特に注意すべきケースとして挙げている
- 退職金を払うのは会社で、売却後は買い手が決議と資金を握るため、支払が確実でない
- 残留期間の関与で退職の事実が、報酬の引上げで金額の相当性が否認されるおそれがある
- 会社の財産を相当額を大きく超えて移すと、会社の滞納に第二次納税義務で巻き込まれた裁決がある
- 原則はクロージング時の受け取り。後払いなら、決議・担保・保証・金額・役割を契約前に固める
退職金と株式の対価の組み合わせは、手取りを増やす一方で、設計を誤ると売り手が最も損をする部分です。クレフティでは事業承継・M&A支援の中で、提示された条件の確認、退職金の金額の検討、手取りの試算、セカンドオピニオンをお受けしています。初回のご相談は無料で、担当者がお話を伺ったうえで、担当の公認会計士・税理士が対応します。退職金スキームの基本は退職金スキームとはをご覧ください。
