DD(デューデリジェンス)を進めると、事前の説明と違う数字や、想定していなかったリスクが見つかることがあります。そのとき買い手が考えるのが「ここでM&Aをやめられるのか」、売り手が心配するのが「ここまで準備したのに、一方的にやめられたら損害はどうなるのか」という問題です。
結論から言えば、最終契約の前なら、原則としてやめられます。ただし、交渉の進め方によっては、やめた側が損害賠償責任を負うことがあります。この記事では、契約を結ぶ前の段階の責任(いわゆる「契約締結上の過失」)に関する最高裁判例4件と、独占交渉条項に関する最高裁決定を、裁判所ウェブサイトの判決情報で確認して紹介し、費用負担と撤退の実務を整理します。
- 最終契約の前は、契約を結ぶかどうかは当事者の自由。DDの結果を理由に撤退すること自体は、基本合意の想定どおりの行動
- ただし最高裁は、相手に契約が確実に成立するという期待を抱かせながら一方的に打ち切った場合などに、信義則上の義務違反による損害賠償責任を認めている
- 独占交渉条項の違反による損害は、最終契約で得られたはずの利益ではなく期待の侵害による損害とされた(最高裁平成16年8月30日決定)
- 撤退に備え、基本合意書に費用の各自負担、有効期限、DDの結果による終了を書いておく
- 最終契約の後は、解除事由と前提条件がなければ自由にはやめられない
M&Aの段階ごとに、やめられるかどうかは変わる
M&Aは、秘密保持契約から始まり、意向表明、基本合意、DD、最終契約、クロージングへと進みます(全体の流れはM&Aはどう進むのか参照)。どの段階で、どんな拘束力があるかを整理すると次のとおりです。
| 段階 | 撤退の自由 | 主な注意点 |
|---|---|---|
| 秘密保持契約〜意向表明 | あり | 秘密保持義務は撤退後も続く。受け取った資料の返還・廃棄 |
| 基本合意締結後〜DD中 | 原則あり | 独占交渉・秘密保持の条項には拘束力があるのが通常。相手に過大な期待を抱かせない |
| DD終了後〜最終契約前 | 原則あり | DDの結果を理由に条件の再交渉か撤退を判断する。打切りの時期と伝え方に注意 |
| 最終契約締結後〜クロージング前 | 契約の定めによる | 前提条件の不充足、解除事由に当たる場合に限られる |
| クロージング後 | 原則なし | 表明保証違反などの補償の問題になる |
中小M&Aガイドラインの用語集は、基本合意書について、基本的に法的拘束力はないものの、独占的交渉権や秘密保持義務などについては法的拘束力を認めることが通常だとしています。最終契約を結ぶ義務まで定めるのは一般的ではありません。基本合意書の詳しい中身は基本合意書(LOI)で決めることと法的拘束力をご覧ください。
契約を結ぶ前でも責任を負う:最高裁判例4件
契約を結ぶかどうかは自由だとしても、交渉に入った当事者は、相手の財産などを不当に害しないよう信義則(民法1条2項)に従って行動する必要があります。最高裁は、次の事案で契約前の段階の責任を認めています。
| 判決 | 事案の概要 | 判断 |
|---|---|---|
| 最高裁第三小法廷 昭和59年9月18日判決(昭和59年(オ)第152号) | マンションの購入希望者が、歯科医院とするためのスペースについて注文を出し、レイアウト図を交付し、電気容量の不足を指摘して売却予定者が設計変更・施工をすることを容認しながら、交渉開始の6か月後に自らの都合で契約しなかった | 契約準備段階における信義則上の注意義務に違反したとして、売却予定者が設計変更・施工で被った損害の賠償責任を認めた原審を維持 |
| 最高裁第一小法廷 平成2年7月5日判決(昭和62年(オ)第870号) | 売買の目的物、代金の額と支払時期、契約締結の時期などを双方が了解し、買主となる者が売主となる者に確実に契約が成立するとの期待を抱かせたのに、一方的・無条件に契約の締結を拒否した | 正当視すべき特段の事情もないとして、信義則上の義務違反による不法行為責任を認めた原審を維持 |
| 最高裁第三小法廷 平成19年2月27日判決(平成17年(受)第869号) | ゲーム機の継続的な販売契約の締結直前の段階で、発注を受けていないのに200台の発注を口頭で約束し、発注書なども交付して、相手に開発・製造を続けさせた | 相手に契約が確実に成立するという過大な期待を抱かせたとして、契約準備段階における信義則上の注意義務違反による損害賠償責任を認めた |
| 最高裁第二小法廷 平成23年4月22日判決(平成20年(受)第1940号) | 契約の一方当事者が、契約の締結に先立ち、信義則上の説明義務に違反して、契約するかどうかの判断に影響する情報を相手に提供しなかった | その損害は不法行為による賠償責任を負うことがあるのは格別、契約上の債務不履行による責任は負わないと判断 |
いずれも裁判所ウェブサイトの判例情報で確認できます。昭和59年9月18日判決/平成2年7月5日判決/平成19年2月27日判決/平成23年4月22日判決
判例から読み取れる「責任が生じやすい場面」
4件はいずれもM&Aの事案ではありませんが、交渉を打ち切る側が責任を問われた共通点は、次のように整理できます。
- 条件の主要な部分(目的物、価格、時期)がほぼ固まっていた
- 相手に「確実に成立する」と思わせる言動があった(口頭の約束、発注書の交付など)
- 相手が、その期待にもとづいて費用のかかる準備をした(設計変更、開発・製造)
- 打切りを正当化する特段の事情がなかった
M&Aに置き換えると、買い手が「DDは形式だけだから必ず買う」と言って、売り手に設備投資の中止や取引先・従業員への説明をさせたあとで、合理的な理由なく撤退する、といった場面が危険です。反対に、DDで重要な問題が見つかったことを理由とする撤退は、打切りを正当化する事情として説明しやすくなります。
また、平成23年判決は、契約前の説明義務違反は不法行為の問題だとしています。売り手が重要な情報を隠して契約に持ち込んだ場合、契約の表明保証とは別に、不法行為責任が問題になりうるということです。
独占交渉条項に違反した場合:最高裁平成16年8月30日決定
基本合意書の独占交渉条項に違反した場合の効果については、大手信託銀行の事業統合をめぐる最高裁第三小法廷平成16年8月30日決定(平成16年(許)第19号)があります。決定は、独占交渉の義務は、社会通念上、最終的な合意が成立する可能性が存しないと判断されるに至った場合には消滅するとしました。そのうえで、違反による損害は、最終合意の成立で得られるはずの利益相当の損害ではなく、最終合意が成立するとの期待が侵害されることによる損害とみるべきだとして、他社との協議の差止めを求める仮処分を認めませんでした。
最高裁判所第三小法廷 平成16年8月30日決定・平成16年(許)第19号。裁判所ウェブサイト(裁判例情報)
実務上の意味は、独占交渉条項があっても、DDの結果を見て最終契約を結ばない自由までは奪われないこと、そして違反した側の賠償の範囲は「取れたはずの利益」ほど大きくならないことです。ただし、損害の立証が難しいからといって違反してよいわけではありません。独占交渉期間中に他の候補と条件を詰めるような行為は避けるべきです。
M&A仲介役員・FAS出身の公認会計士の経験をもとに、株主構成の整理、株価算定、親族内承継、外部への売却とデューデリジェンスまで支援します。初回のご相談は無料です。
事業承継・M&A支援を見る撤退に備えて基本合意書に書いておくこと
DDの結果を見て撤退する可能性に備え、基本合意書には次の点を明記しておきます。
| 条項 | 書いておく内容 | ねらい |
|---|---|---|
| 法的拘束力の範囲 | 拘束力があるのは秘密保持・独占交渉・費用負担・有効期間などに限ると明記 | 価格やスケジュールは拘束しないことをはっきりさせる |
| 最終契約の条件 | 最終契約はDDの結果に買い手が満足し、取締役会などの承認を得ることを条件とする | DDの結果による撤退が想定内であることを示す |
| 費用負担 | 各自が依頼した専門家の費用は各自が負担する | 撤退時の費用の争いを防ぐ |
| 有効期間・終了 | 期限までに最終契約に至らなければ終了。一方の通知で終了できる事由 | 独占交渉に縛られ続けないようにする |
| 秘密保持・資料の返還 | 終了後も秘密保持が続く。資料の返還・廃棄 | 売り手の情報を守る |
中小M&Aでは、撤退した側が違約金を払う定め(いわゆるブレークアップフィー)を置くことは多くありませんが、置く場合は、損害賠償額の予定(民法420条)として金額を合意しておく方法があります。
撤退するときの伝え方
撤退を決めたら、できるだけ早く、理由を添えて書面で伝えます。判例を見ると、相手に準備を続けさせたまま連絡を遅らせることは、責任を重くする方向に働きます。理由は「DDで○○の問題が判明し、価格や条件の調整では解決できないと判断した」といった形で、事実にもとづいて説明します。
撤退した場合の費用と税務、銀行への対応
DDの費用の行方
- 買い手:自ら依頼したDDの費用は、基本合意書で各自負担としていれば買い手の負担です。買い手が法人の場合、株式を取得していれば取得価額に含めるかが論点になりますが、取得に至らなかった場合は、その費用を資産として計上する対象がなくなるため、通常は支出した事業年度の費用として処理することになります。具体的な処理は税理士と確認してください
- 売り手:仲介者・FAに払った着手金や中間金は、契約上返還されないことが多いため、契約時に確認しておきます。個人株主の場合、売却が実現しなければ譲渡所得そのものが生じないため、譲渡費用として差し引くこともできません
事業承継・M&A補助金(16次公募)の公募要領では、補助事業期間内に経営資源の引継ぎが実現しなかった場合(クロージングしなかった場合)、補助上限額を300万円に変更し、原則としてDD費用のみを補助対象経費として認めるとされています。撤退の可能性がある案件でも、DDの費用については補助の対象になりうるということです。補助金の詳細は事業承継・M&Aの補助金と公的支援をご覧ください。
金融機関への連絡
買い手が買収資金の融資を申し込んでいた場合は、撤退を決めた時点で金融機関にも連絡します。審査が進んでいるのに連絡しないと、次の案件で相談しにくくなります。金融機関との関係は長く続くものなので、M&Aが成立しなかったことも含めて、正直に経過を説明しておくほうが信頼につながります。買収資金の融資の考え方はM&A・買収資金の融資で整理しています。
最終契約を結んだ後にやめたい場合
最終契約を結んだ後は、契約に定めた事由がなければ、一方的にやめることはできません。理由なく取引を実行しなければ債務不履行になります。最終契約で取引を実行しないことができるのは、主に次の場合です。
- クロージングの前提条件が満たされない(表明保証が重要な点で真実でない、主要取引先・賃貸人の承諾が得られない、許認可の手当てができない、経営者保証の解除の目途が立たないなど)
- 契約に定めた解除事由に当たる(重大な義務違反、重大な悪影響を及ぼす事由の発生など)
中小M&Aガイドラインは、最終契約からクロージングまでに特段の事情なく2か月以上などの期間を設けると、業績の変化やDDで把握した内容からの変化により、契約の修正や不履行が生じるリスクがあると指摘しています。最終契約の条項は株式譲渡契約の要点で解説しています。
まとめ
- 最終契約の前なら、DDの結果を理由に撤退することは原則として可能
- ただし、相手に確実に成立するという期待を抱かせ、費用のかかる準備をさせたうえで一方的に打ち切ると、信義則上の責任を負いうる(最高裁昭和59年9月18日、平成2年7月5日、平成19年2月27日)
- 契約前の説明義務違反は不法行為の問題(最高裁平成23年4月22日)
- 独占交渉違反の損害は期待の侵害にとどまり、差止めは認められなかった(最高裁平成16年8月30日決定)
- 基本合意書に、拘束力の範囲、DDの結果による終了、費用の各自負担、有効期間を書いておく
- 最終契約の後は、前提条件と解除事由がなければやめられない
DDの進め方はDDの注意点、DDの種類と費用はDDの種類と範囲・費用の考え方をご覧ください。クレフティでは事業承継・M&A支援として、財務・税務デューデリジェンス、条件交渉の前提となる株価算定、他の専門家の報告書や契約条件のセカンドオピニオンをお受けしています。初回のご相談は無料です。担当者がお話を伺い、その後は担当の公認会計士・税理士が対応します。
